東-世界系と呼ばれる一群の作品の基本フォーマットはハルキですから。ハルキは世界系と呼ばれるものの起源ですから。
-初めて知りました。世界系ってつまり身近な恋愛と世界の終末がリンクするやつでしょ?
東-それが初めてはっきりとした作品として示されたのが『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ですね日本文学史的にも。
-面白い、なるほど。
東-ただこれも先ほどから繰り返し言ってるように、ハルキ自体は漫画やアニメの影響を受けていないんです。ハルキが勝手に影響を与えているだけです。ここがすごい重要なところで、例えばハルキにインタビューとかでこういう作品があって起源だって言われてるんですけど…。って言っても、なんじゃそら?って話しになりますよね。
でも実は丹念に見ていくと影響関係ははっきりとあるし、構造的にも似ています。漫画的とかアニメ的って何かというと、人間をキャラクターの絵にしてしまった瞬間に生々しい肉体とか時代性とか土地性とかが消えてしまうわけですよ。
ただハルキって最初からそれを消える作品を書いた人ですから、ハルキ的なものって漫画とかアニメに親和性が高いんです。ああゆう匿名的な物語っていうのがここ10年15年大衆に支持されるようになったんですよね。土地に根ざしたというよりも、交換可能な自分、交換可能な土地、交換可能な物語。そこで展開される泣ける話、深そうに見える話っていうのがうけるのが大きな傾向です。
-なるほど極めてハルキ的ですね。
東-これは文学だけの話に限らずアニメーションとかいろんなものをひっくるめて匿名的な物語、交換可能な物語みたいな方向へ世の中が大きく振れていると僕は思いますね。
-それはどの街にもStarbucksコーヒーがあってとか、土着性と違う概念で、今の子供たちは育ってきてるじゃないですか。極端に言えば香港に行ったって、ニューヨークに行ったってStarbucksコーヒーはあるわけで。
東-そのとおり!じゃあ日本の場合はそれはジャスコが似合ってるわけですよね。どこの街にもジャスコがある。これは実際に言われいることで、もう既にジャスコ世代ってものが存在しているわけですよ。彼らは物心ついた時には既にジャスコがあって、親がジャスコに連れてってくれてジャスコでオモチャ買って、中学生になったらジャスコでたむろって、でジャスコでデートして、ジャスコで遊んで、そうして育っているわけで…(続く)
-スゴい馬鹿な質問で申し訳ないけど、村上春樹ってなんで世界的に有名になったの?どのへんから?
東-よく言われてるのがハルキっていうのは世界中で同じように読まれる小説だと、つまり消費社会がある段階までくるとだいたいどの国でも売れて、例えば韓国でもある時期になるとハルキが売れて、中国でもある時期になるとハルキが売れるみたいな。
消費社会の進展がある段階までくるとハルキ的物語がうけるという。それはある種のテンプレートとして世界中に流通しているというのは世界中で言われていることですね。
-面白い!
東-ある意味では日本が初めて産み出した世界的文学でしょうね。
村上春樹の文学ってなるべく無国籍にかつなるべく匿名的に物語の空間を作っていたわけですよね。特に初期の頃は。
ノルウェイの森が初めて固有の名前の主人公が出てきた小説だと言われていて。そういう匿名的な都市の寓話みたいなものを思考するという、あとは決めセリフですよね。ハルキっていうと決めセリフばっかりなんですよ。なんかそれっぽい深いような浅いような…あとパスタ作ったりして(笑)
-(爆)
東-あの雰囲気ってスゴい漫画的なんですよ。簡単に言うと。ハルキの漫画性っていうのがある種彼のグローバル化というか普遍性を支えていると思うんです。世界中の人が日本人の作家が書いていると思わないで読んでいると思いますね。
-なるほどね
東-例えば女性の殺し屋、ふかえりっていう美少女キャラの設定とかは、今の漫画アニメ的な想像力にすごく近いのでそれはすごい面白いですね。つまり村上春樹って人が漫画とかアニメとかを見てるとは思わないので面白いんです。
これどういうことかというと、すごい簡単に言うと日本の漫画とかアニメってハルキの影響をすごく受けてるんです。一般には知られていないことですけど。
ーえっ!!
東-日本の漫画、アニメ、ゲームに本質的な影響を与えている唯一の純文学作家だと思いますよ。
ハルキから影響を受けた作家たちが作り上げてきたキャラクター造形と、老境を迎えたハルキが作ったキャラクターが結局どこか一致してきたということだと思うんです。
例えば『世界の終わりとハードボイルドワンダーラント』だったら、ハードボイルドな現実世界とその向こうにある彼方の幻想世界ですよね。あの二項対立っていうのは90年代の後半から00年代にかけて、ゲームで言われた世界系って言葉があるんですけど。(続く)
雑々としてまとまりの無い文章になるが辛抱していただきたい。

青豆がリーダー抹殺を決意するシーンは、泣きながら読んだ。リーダーの性の具として弄ばれ傷ついた少女。青豆は少女時代の自分の姿をそこに重ねる。そして小説を読む僕らも傷つけられた少年少女時代の自分たちの姿をそのフィクションに重ねる。
そして自分たちが受けたキズの本質の意味をまざまざと目の前に突きつけられるのだ。

エンターテイメントとしては青豆の自死をもって物語を終わらすのが正解であったろう。
続く物語があるなら、青豆と天吾が再会しハッピーエンドを迎える。この展開は容易に予測できる。しかしそんな予定調和の物語になんのエンターテイメント性があるのか?
しかし物語は予定調和のままに進む。
青豆と天吾が再び出会う物語にすることは村上春樹の作家としての倫理観と責任感がさせたのだろう。
名称は変えてはいるが、実在の『エホバの証人』を取り上げて、そのヤミを白日に晒したまま投げっぱなしにはしない。小説としてのまとまりを捨ててでも、2人は出会わなくてはならなかった。

物語の終盤、タマルと牛河の対決が描かれる。何を意味するか?
青豆と天吾は『愛』を武器にヤミから出てくることに成功するが…。
『愛』は多くの人にとって有効な武器になるが、『愛』とは無縁な人々も絶対数いるのだ…ということの暗示だろう。
つまり『愛』は絶対的な答えではない。言い換えるなら『普遍的な絶対的な答えなどない』ということだろう。
その暗示として牛河の死体の口が開きリトルピープルが現れる。この場面をもって「ブック④がある」という方々もいるが…作家の意図することではないような気がするが。
ただ村上春樹氏自身 海外メディアでは4巻を執筆中と答えているらしく。
…でもあのラストシーンから何年か後の話だったり、もしかしたら『ブック0』かも知れないし。いずれにせよ語られる物語はブック3からの地続きの物語ではない気がする。

僕は自分のエホバの証人問題は、うちの家庭で起きた。非常にドメスティックでローカルで、門外不出の我が家の恥部と捉えていた。しかし『1Q84』と出会い、僕らのヤミの本質はもっとグローバルで、もしかしたら時代の尖鋭を先取りした問題なのかも知れないと感じるようになってきた。
だって世界的な作家がその集大成とも言われる作品で真っ向から僕らの問題を取り上げたんだぜ!
それってスゴいことだと僕は思うんだ。