雑々としてまとまりの無い文章になるが辛抱していただきたい。

青豆がリーダー抹殺を決意するシーンは、泣きながら読んだ。リーダーの性の具として弄ばれ傷ついた少女。青豆は少女時代の自分の姿をそこに重ねる。そして小説を読む僕らも傷つけられた少年少女時代の自分たちの姿をそのフィクションに重ねる。
そして自分たちが受けたキズの本質の意味をまざまざと目の前に突きつけられるのだ。

エンターテイメントとしては青豆の自死をもって物語を終わらすのが正解であったろう。
続く物語があるなら、青豆と天吾が再会しハッピーエンドを迎える。この展開は容易に予測できる。しかしそんな予定調和の物語になんのエンターテイメント性があるのか?
しかし物語は予定調和のままに進む。
青豆と天吾が再び出会う物語にすることは村上春樹の作家としての倫理観と責任感がさせたのだろう。
名称は変えてはいるが、実在の『エホバの証人』を取り上げて、そのヤミを白日に晒したまま投げっぱなしにはしない。小説としてのまとまりを捨ててでも、2人は出会わなくてはならなかった。

物語の終盤、タマルと牛河の対決が描かれる。何を意味するか?
青豆と天吾は『愛』を武器にヤミから出てくることに成功するが…。
『愛』は多くの人にとって有効な武器になるが、『愛』とは無縁な人々も絶対数いるのだ…ということの暗示だろう。
つまり『愛』は絶対的な答えではない。言い換えるなら『普遍的な絶対的な答えなどない』ということだろう。
その暗示として牛河の死体の口が開きリトルピープルが現れる。この場面をもって「ブック④がある」という方々もいるが…作家の意図することではないような気がするが。
ただ村上春樹氏自身 海外メディアでは4巻を執筆中と答えているらしく。
…でもあのラストシーンから何年か後の話だったり、もしかしたら『ブック0』かも知れないし。いずれにせよ語られる物語はブック3からの地続きの物語ではない気がする。

僕は自分のエホバの証人問題は、うちの家庭で起きた。非常にドメスティックでローカルで、門外不出の我が家の恥部と捉えていた。しかし『1Q84』と出会い、僕らのヤミの本質はもっとグローバルで、もしかしたら時代の尖鋭を先取りした問題なのかも知れないと感じるようになってきた。
だって世界的な作家がその集大成とも言われる作品で真っ向から僕らの問題を取り上げたんだぜ!
それってスゴいことだと僕は思うんだ。