となりの部屋でねむっている 父親をおこしにいくけれど
雨戸が全部しまっていて どこにいるのかもわからない
ぼくのかわりに誰かがおこしにいけばいいのに
くらい くらい 夜のヤミよりくらい (「日曜日の午後」)


眠っているあいだにそっと ぬるい空気がまいおりてきて
その一週間 雨がつづいた うっとおしくて ずっと部屋にいた
舌の短い女がキスしてきて
ますます ゆううつになった (「たいくつ/ゆううつ」)


そこに示されているのは、簡単に抜け出すことのできない世界だ。同じところをいつまでもぐるぐると回り続ける世界だ。そういう世界のあり方に、主人公はほとんど嫌気がさしているのだが、出口は簡単には見つからない。あるいは出口はすぐ近くに見えているのだけれど、立ち上がってそこから出ていくだけの気持ちを、どうしても奮いおこすことができない。外に出て行くのは、なんだか億劫だ。また意を決して出て行ったところで、そこにかれが見いだすものは、こことほとんど変わりのない世界かもしれない。
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スガシカオの音楽を初めて耳にしたとき、まず印象づけられたのは、そのメロディーラインの独自性だったと思う。彼のメロディーラインは、ほかの誰の作るメロディーラインとも異なっている。
多少なりとも彼の音楽を聴き込んだ人ならおそらく、メロディーをひとしきり耳にすれば、
「あ、これはスガシカオの音楽だな」と視認(聴認)することができるはずだ。こういう固有性は音楽にとって大きな意味を持つと僕は考える。
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この人の書く歌詞のもうひとつの大きな特徴は、生理的な、感触的な表現がきわめて多いことである。
たとえば「闇を背負ってしまった」とか「そのうす明かりのなかで手さぐりだけで」とかいったフレーズは、典型的なスガシカオ世界のあり方だ。もっと焦点を絞るなら、「闇」とか「手さぐり」
といったタームが、この人の世界では重要な役目を果たすことになる。この人は自分の体内に、そういういくつかの状況言語をしっかりとリザーブしているようだ。そういう印象を受ける。
狭い部屋、すえた空気、生臭いにおい、ヒリヒリしたかたまり、なげやりな気持ち、むずむず感、濡れた靴、惰性的な性交…ほかにいくつか例をあげてみよう。

夕方までねてしまって だるい体を起こした
すぐ近くまで 忍び寄っている 浅い夜のにおい (「夏祭り」)
『Clover』がリリースされたのは’97年9月である。それに先立つ2年前に村上春樹が長い間暮らしたアメリカから日本に帰国した後、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた異色のノンフィクション『アンダーグランウンド』を発表した年に当たる。例のスガシカオ論で村上春樹は、スガシカオの世界を「ポスト・オウム的」と表現し、「そこにあるのはたしかに、1995年以降でなければうまく通じにくい、漠とした『カタストロフ憧憬』ではないか」
と述べている。人間社会の何か大切な基盤が崩壊し始めたという喪失感覚が私たちを漠然と包むようになったのは、たしかに阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の衝撃を受けた'95年ごろ以降かもしれない。
正体のわからない巨大な闇に世界が覆われている。そんな時代で二人は出会ったのだ。
近作のCD『PARADE』でスガシカオは「ヤミを食べて巨大化した カナシミを今ぶん殴れ ウソで理論武装した明日に 唾を吐いて笑い飛ばそう」(Hop Step Dive)と歌う。
そして今、村上春樹は『海辺のカフカ』以来の大長編にとりかかっているはずである。村上春樹も、スガシカオもくせになる。彼らの今後のそれぞれの作品を、ジェントルな関係で結ばれた同時代のコラボとして見守りたい。
(清水良典・文芸評論家 別冊カドカワより)

…『1Q84』前夜の評論でした。