一方、村本も同じように古事記その他の本を読まされた。それは、思想犯の転向用に獄中では必読書になっていたのである。しかし村本は、日本史だけではなく世界史も学び、その上で聖書の世界に心のよりどころを求めたのだった。今さら獄中で古事記の類を読まされようと、その信仰がぐらつくこともなかったのである。
だからこそ、真人が順三の子であったという事実が、重い意味を持つ。真人は、順三の方針もあって、上級学校には行かなかったのだ。

順三は生涯、転向した息子と会わなかったという。
私は大のことを考えていた。
エホバの証人の両親に育てられた大が、いつか聖書以外の世界に目を開いたとき、彼はどうしただろうか。
真人が視野の拡大したダイナミズムによって転向したように、エホバの証人であることを恥じたろうか。
明石真人は、昭和14年1月、村本の入隊から9ヶ月遅れで世田谷の野砲第一連隊に入隊した。20歳の若さであった。入隊一週間後の夕方、真人は内務班長の軍曹のところに行き、「自分はキリスト者として聖書の"なんじ殺すなかれ”の教えを守りたいので、銃器をお返しします」と言った。
この件に関して、順三からの指示は何も無かった。順三は個人の自主的な判断にまかせたのだった。
真人の兵役拒否を知った村本は、一刻たりとも軍隊の中にいるべきではないと感じ、脱走して灯台社に逃げこんだ。そこで順三に隊に帰るように諭され、再び隊へ戻り、正式に兵役を拒否する。
真人は懲役3年、村本は2年の刑を受けた。明石順三の息子であり、伝道者としての経歴も長い真人の方が、思想的に根強いと見られたのかもしれない、と稲垣氏は書いている。
だが転向したのは真人の方だった。彼の村本より一年長い刑期が、順三の息子であったためだとすれば、彼の転向もまた、順三の息子であったためだった。
真人は陸軍刑務所を出所するにあたり、転向の理由を書いた手記を残している。
自分はこれまでエホバの証者と自称して、国家に対する義務も責任も人間的な名誉も権利も、現世に生活するということも否定してきた。しかしながら、己れを現実の世界から隔離させて、自分のみ精神的満足を得ようとするのは、自己中心の独善主義である。自分はその点に気づかず、聖書信仰という夢の中に眠っていたのだ。
元来自分の信仰は、無知な子供の時代より父がその信仰的立場から教育した結果、有するに至ったものである。それが、刑務所で古事記や日本書紀、さらに徳富蘇峰の近世日本国民史といった本を読んで、これまで知らなかった世界への目を開かれたように思った。聖書の世界以外にも精神的な世界が開かれていたのである。

私は『兵役を拒否した日本人』(稲垣真美著)という本を読んだ。

明石順三は明治22年7月、滋賀県の琵琶湖のほとりに生まれた。貧しい家庭ではあったが、独立心旺盛な明石は自力でアメリカに渡り、何年かの日庸稼業の後、新聞記者となる。
もともと激しい正義感の持ち主で、社会部の記者として認められていく。
その頃、妻の影響で、ワッチタワーというキリスト教のグループを知るようになる。彼はワッチタワーの教義に強く惹かれ、記者の仕事を捨て、伝道者の生活に入っていった。アメリカでの伝道生活を経たのち、20年ぶりで日本に帰り、活動を始める。これが灯台社のおこりである。
この本では二人の信者に焦点があてられている。
村本一生は大正3年に熊本県に生まれた。阿蘇の豊かな自然の中で育ち、旧制五高から東京工業大学染料化学科に進んだ。昭和10年学生時代最後の夏休みに帰省したとき父の書斎で、灯台社の機関紙『黄金時代』を見つける。なにげなく読んでみて、ひどく惹かれるものがあった。
上京した彼は、さっそく白山神社横の灯台社をたずねた。順三の人柄とワッチタワーの教義に心を奪われた彼は、東工大を卒業すると、就職先を蹴り、灯台社に住みついて伝道に明け暮れるようになる。
何事にもざっくばらんな順三の下には、多くの若者が集まった。当時の灯台社には、家族のように温かい雰囲気があったという。村本も、順三の子供達ともすぐにうちとけ、互いに名前で呼びあった。
とりわけ、年齢の近かった長男の真人とは、地方伝道にも一緒に出かけ、野宿もし、苦労をともにした。
文字通り、同じ釜の飯を食った仲であった。
だが、そんな平和な日々にもやがて幕が下りた。招集である。