毎年九月七日〜九日、群馬県太田市の大光院の開山で『子育て呑龍さま』として親しまれる【呑龍上人】の忌日法要が営まれます。

群馬県民には大光院というよりも『呑龍さま』という方が伝わるくらいでありましょう。


群馬県民のほとんどが知っていると言っても過言ではない上毛かるたという郷土かるたの一枚に選ばれているのがこの大光院、呑龍さまであります。





大光院は慶長十八(1613)年、
徳川家康の命により、
徳川家の始祖と言われる新田義重の追善供養と徳川氏一族の繁栄・天下泰平のため創建された浄土宗の寺院です。この開山となられたのが他ならぬ呑龍上人でありました。



呑龍上人は弘治二(1556)年四月二十五日、武州一の割(現在の春日部市)に誕生され十三歳の時に得度して仏門に入られましたが慧解人に優れ忽ち頭角を現して当代に学徳を謳われました。

慶長十八(1613)年、徳川家康公がその祖新田義重公追善の為当山(義重山大光院新田寺)を建立されるや選ばれて開山上人として入寺され元和九(1623)年八月九日の御遷化に至る十一年間力を尽くして人心の教化に務められました。

御在世中尊寺数々の不思議な御法力尊い菩薩行は枚挙に暇がありませんが、今日子育て呑龍さまとして尊信される謂れは当時流行していた堕胎、捨児の悪習を制止され禄米を施して困窮者の児女を弟子といふ名目で養育され幾多の尊い命を救われたことに始まります。

御滅後の霊験又あらたかに愛児の無事成長を宝前に祈念する参詣の年と共にふえ行くのも有難い極みであります。


(大光院と呑龍上人 大光院リーフレットより)


追記させていただきますと、
江戸時代初期の元和二(1616)年、呑龍上人は、親の病気を治そうと、国禁を犯し鶴を殺した少年源次兵衛を匿います。
この事は幕府に露見するところとなり罪人となってしまいます。
呑龍上人は弟子とした源次兵衛を伴い信濃国に入り小諸にある仏光寺に逃れました。
五年後の元和七(1621)年に、
恩師であり徳川家康とのつながりがあった観智国師の遺言によって幕府より赦免となり、六十六歳の春に大光院に帰山しました。

元和九年(1623年)夏、病床にあった上人は衰弱が目立つようになりました。
八月三日、弟子や関係者を枕辺に集めた上人は
「上人予眼光落地の後は遺骸を荼毘に附すことなく須らく東面し堂の西霊廟の傍に葬れ、予永く国を鎮め寺を守り、予が塔前に祈念するものあれば必ず心願成就せしむべし」と遺言しました。
そして九日の正午、雷鳴がとどろく中、入寂しました。
時に元和九年八月九日世寿六十八歳でした。

(『大光院と呑龍上人』より一部抜粋)





コロナ禍となる前のとある夏の日、参拝した折たまたま境内に貼られていたご案内を目にし、この法要に参列させていただきましたのがはじめでありました。

その厳粛さに圧倒されると同時にすっかり魅了された私は、同じ年に夫を誘い、二度参列させていただいたくらいです。




大きな太鼓の音が開山堂から響くのが始まりの合図です。

私は昨日の大法要に参列させていただきました。




御本堂から笙の笛の音が聞こえ、長い渡り廊下をまず僧侶が歩きます。

その後笙の笛を先頭にいくつかの楽器を奏でる僧がそれに続きます。





その後、何人かの僧に囲まれて唯一被り物を着けられた僧が通られます。
お導師さまでございます。






続いて冠をつけ、お揃いの装束を身に纏い、それぞれの持物を手にした稚児が通ります。






それぞれ手に、手持ちの吊り幡、首から描けるようにされた小鼓、妙鉢、タンバリンによく似た楽器、小さな蓋の付いた金属製の容器、散華盆などを恭しく持ち厳かに歩いてまいります。


これを見るだけでもう胸は高鳴り、私の穢れ多い身も心も浄められる思いがいたします。


しかしながら哀しいくらい煩悩の塊であります私、なかなかそう簡単にはまいりませんが…。



この後開山堂の中へ私どもも入堂させていただきこの法要に参列させていただくことができます。ただし、開山堂内での写真撮影は禁止されております。




法要は一時間強続きます。


翔の笛や太鼓、妙鉢などに合わせての読経。


稚児による礼賛舞の奉納は見事としか言いようがありません。



その後法要を営む僧たち、稚児が全員、御内陣の裏手と外陣を回りながらの散華が行われて、厳かなうちに法要は幕を閉じるのでありました。


三日間営まれる開山忌。

本日八日には夜七時から百万遍念佛が行われるといいます。

三日目となる明日九日は十二時半から散華行道という形での法要が営まれるようです。