この尊像の案内板は大きな石を切り出した石板に彫られています。
これを見るだけでも、この尊像を末永く後世に残そうとされた地元の方々の強い思いが感じ取れます。


その題字は『沢入薬師如来堂佛像調査』

そして続いて書かれた文言は
干宝暦九己卯年 釈迦トアレドモ薬師如来…       

…この石板の刻字をみて、
(なんだろう釈迦トアレドモ薬師如来って)
と、ドキドキワクワクしたおばさんがここにおります。

『トアレドモ』って今まだ知らなかったお薬師さまの形態とかであろうか?
『トアレドモ薬師如来』さま?

そんなワクワクドキドキをなんとか鎮めて、まずはお詣りをいたしました。
まずお詣りをさせていただきそれから説明を読むなり、他のお堂にお参りしたり、石仏さまをお参りする。
それが私がこの神社仏閣巡りを始めてからずっと大切にしている私の中での決め事であります。

『トアレドモ』が何を示すものか、この尊像を拝しただけではわかりませんでした。

そもそも『トアレドモ薬師如来』の前に〝釈迦〟を冠しております。

もう一度、石碑に向かいます。
『干宝暦九己卯年釈迦トアレドモ薬師如来
是迄百八十年也
当院七代〇〇〇〇
干天正八年庚申九月吉日
奉造立南無釈迦牟尼佛
本願蔵春庵二代芳林〇
学坊主父母之也
以上台座の裏に墨で黒く書いて有りました文です。…

この文を現代文としたものがあり、ようやくわかったことに、

なんでも、宝暦九年に当院(ここがどこかは記されておりません)七代目の何某が改修の折改めたところ、
『この仏像は〝釈迦トアレドモ薬師如来〟』
と仏像の台座の裏に墨で書かれていた、ということで。

…!
釈迦とあれども薬師如来だ!
『トアレドモ薬師如来』などという新(珍)仏さまではなかったのです。

さっすが珍道中おばさんです。

ちなみにこの『薬師如来』さまは檜の寄せ木造だと、やはりこの石板に書いてありました。
みどり市の文化財指定をされているとのことで、みどり市のHPをみてみたところ、

『…桧(ヒノキ)材の寄木造りで、黒漆と金箔を貼って仕上げたもので、下ふくらみのある伏せ目の表情や、頭部がイノシシの首のよう(猪首状)に下がったため大きくなった肩張りや通し肩の衣紋に宗風の名残が見え、室町時代後期の特徴が認められます。

江戸時代中期の宝暦年間の墨書により、天正8年(1580年)に制作されたと考えられており、連座の連弁と台座も同時期の制作と考えられています。』

とありました。


〝釈迦トアレドモ薬師如来〟の謎は解けません。

どうしてそのようなことが起きたのか?

お釈迦さまを依頼したけれども、後年調べたらお薬師さまであった?

奉造立は『釈迦牟尼佛』さま、となっていますから。

依頼された石工がなんらかの理由で間違えてお薬師さまを彫ってしまった?
長い年月を経て、お薬師さまにすがりたいような大きな出来事があって、途中でお薬師さまに作りなおしている?

お釈迦さまではなくてお薬師さまであると断言して書き残したからには、少なくとも江戸宝暦年間に調べたおりにはお薬師さまの特徴を備えていたのでありましょうから。


そもそもの御像をよくよ〜く見てみますが…

いかんせん御堂の中、よくは見えないのです。
スマホを使って撮影させていただいて拡大してみたところで…わからない。

両の御手で演っこをお持ちになる形ではなくて、右手と左手は別々の動きをしていそうです。
施無畏印?…そう見ればそう見えるかなぁ、のレベルなのです。

施無畏印はすべての畏怖を除き、衆生に安心を与えることを示す印とされます。

ただ…この印はお釈迦さまも、阿弥陀如来さまもこの印相を示されることがあります。
右胸より少し低い位置で手のひらを前に向けたもの、となります。

…うーん、まじまじと見ると違うように見えます。
むしろ違う気がしてまいります。

…見えないんですね、拡大してみたところで。


そして、左の御手はさらによく見えず、何か丸いものをお持ちなように見えるような見えないような…。


もはやもう私の妄想の世界です 笑。





(みどり市さんの文化財のページよりお借りしました。)