今日は、父の命日 | たんたんのhumming DAYs

たんたんのhumming DAYs

横須賀での
静かで穏やかな暮らしの中で
徒然なるままに
思った事、感じた事。
素直な心の動きを



2009年の今日
父は肺癌で、亡くなりました


5月に肺癌が見つかり
すでに、腫瘍は4センチ
動脈を抱き込んでいて
手術は不可能。

それなのに、ベッド待ちして
6月初旬に入院だった  



抗癌剤治療を勧められて
当時、お正月を迎えるのは難しい
との話が
治療を開始した後
容態は悪化
次の検査で
腫瘍は7センチに増え

抗癌剤も
体力低下で
一度しか試せず

日に日に衰え
お正月を迎えられない
から、
秋を。になり
とうとう夏を越えれるかに。

結局、入院して2ヶ月足らずで
他界してしまった

入院の時
足取りも軽やかに
1人で歩いていた父

私の車で送るので
実家に迎えに行くと
こんな時に
母は何かの用事で不在
呑気で、案外勝手な母らしい


題名は忘れたが
大好きな西部劇の映画を観ていた

小さくなった背中を
悲しく見たが
まさか、亡くなるとは。


入院後
勿論、間違ってなくてそうなのだが。

激しい重病人高齢者扱いで
あっという間に、歩けなくなり
そうなると、すぐに
オムツの生活に
素敵で、おしゃれで
知的な自慢の父が

あれよあれよと、
介護老人になってしまった

悲しく思う私より
父の方が辛かっただろう
父は、何とか1人で何でもしたくて
看護士さんに抗っていた
着替えやトイレも
自分ですると言い張り
担当の看護士をベッドのカーテンの中に
入るのを拒んだり
結局、出来ず
ひどい有様になり
頼らざる負えない状態になっていたのを
何度か目撃したが
すぐには声を掛けれなくて、
待合室で時間を潰したこともあった

そんなことを繰り返しながら
絶望や、諦めの状態に
なっていたのかもしれない
と、今になって思う
当時は、父の心の動きに
寄り添えてなかった

刻々と酷くなる、
病状に全神経が、振り回されていた


食事も、うまくないと
ほとんど食べず
私の顔を見れば
家に帰りたいと
何度も私に訴えた父

家に連れ帰ってあげたかったけど
急変を恐れて

叶えてあげられなかった
心残り、悔いが残っている
急変したっていい、
叶えてあげればよかった


最期の日は
新潟から兄弟が駆けつけて
仲良しの友達も駆けつけ
皆に会えた。


血圧低下で
危篤とは言われていたが
意識はしっかりしていたので
賢い人なので
きっと、そろそろお別れだと
悟った様だった
悲しそうな目をしていた
孫達を一人一人撫でた。

そうして、
私に酒買ってこい!と。
口調がいつも通りで
ちょっと、嬉しかった 

うん、と返事をして
病院の外に走り出したけど
酒屋がみつからず
コンビニも酒を扱って無いとこばかりで

ドラマの様に
涙を流しながら
横須賀の街を走り回った

駅近くのコンビニで
見つけ
間に合わなかったらと
思いながら走って戻った


今思えば、あのあたり
酒屋あったのに
あの時は錯乱状態だったからか
見つけられなかった


病室で
案外スッキリとした顔つきで
皆に囲まれていた父

兄弟や友達は紙コップで
父は
もう、起き上がれなかったので
スプーンで
ひとくち、ふたくち。


うまいなぁ〜と
本当に嬉しそうだった


皆が帰って
眠い、寒いと
言う父の言葉に
死がどのように
やってくるか知らない私は

疲れたんだろうから
少し寝たら?と。

そのまま、寒いと言いながら
眠りについた
死の淵にいたとも、知らず
知っていたけど
理解していなかった?のかも。

その時、衝撃的な事が
寒い寒いと言うので
少し足元の布団をめくって
父の足を見てみると
なんと、パジャマは、履いておらず
オムツのまま

え!
私には、看護する側の
それが、死を迎える人への
その後の下準備に思えた。

もう、間も無く亡くなるので
着替えの手間を省くと言うような

慌てて、そっと布団を戻した
衝撃過ぎて
誰にもいえなかった

青白く細くなった
父の足が悲しく思い出される
山が好きで、ほんの数ヶ月前まで
山歩きを楽しんでいた足なのに



そして、眠りについた父
それが、最後の眠りだった
それから、いびきをかいて、
ずっと眠っていた。

時々、看護士がチェックに来て
最後なので、手を握ってあげてください
とか、声をかけてくださいね
と。

ただ、眠っているだけのように
見えていた。
はい!と言いながら
父を寝かせたまま
私たち、母と弟と3人で
他愛のないお喋りをしていた


昏睡だった父が
もし、声を聞いていたら

お前たち、俺死ぬのに
くだらない話をしてるなぁと
呆れていたかも知れない

または、
普段の日常の続きみたいな
雰囲気で逆に穏やかで
案外、良かったのかも知れない
とも、思う


間も無くして
知り合いの医師が来て
あー、もう昏睡ですね。
もう、起きないですよ、って。
言って
呑気な私たちに
お別れが近いと教えるかの様に

その医師は、父を
『お父さん、お父さん、
わかりますか?』と
激しく揺すって大声で呼んだ


何の反応もなかった


そして夜が更けて
父に繋がれた医療機器のどれかの
アラームがなり

医師と看護士が
走ってやってきた
最期を迎えた
穏やかで、眠る様で
静かな死の瞬間であった


母と弟は、今後のことで
慌しくなり
私1人が父のそばに残った


1人になってすぐ私は
手を握った
あったかかった。
父の手を握るなんて、
いつぶりだろう。


記憶にある父の手の感触より
遥かに、温かかった
そして、しばらくの間
ずっと、温かだった
こんなに長く体温って残るんだな

なんて、流れる涙を 
止めることもできず
思った

そして、その時
不思議な現象に遭遇した
枕元近くに座っていた私
向こう側の足元から

タバコの煙の様なものが
シュルシュルと渦を巻きながら
天井へ消えていく
結構な量だ、

え?なんかあったっけ?
足元に?加湿器とか?と
見に行っても何も無かった

なに?なに?


すぐに理解した
あー。
父の魂が抜けた瞬間だったんだ。
と、思った。
はっきり見えた
綺麗な真っ白な煙。

まるで、父が燻らす
パイプの煙の様だった
バイバイって言うふうに、
くるくると渦を巻きながら

見送ったあと
ありがとう、ごめんねと
何度も繰り返した



後になって
もっと、違う治療法を探したり
命を存える方法を
探すことに奔走すべきだったと
セカンドオピニオンも、
すれば良かった。
後悔が、たくさん溢れた


今現在
父の遺骨はまだ、
母の住む実家にある。

無宗教の父、
葬儀は家族葬で
行われた

お墓もあるのだが
母が。別れたくないと言うことで
家に置いている。

母の兄弟は
そんな事をすると
不吉な事が起きるから
早く納骨しなさいと
いまだに、言うらしい


私も、そろそろ
納骨してもいいかなと
思うけれど
母は、いてくれる気がして
家に置いて良かったと話す
なので、きっと
この先もこのままかな


私と弟は
母が亡くなった時
2つ並べて
同時に納骨しようと話している

私は密かに2人の骨壺をリボンで
結んであげようと企んでいる


私は、あまり良い娘では無かったけど
本当に感謝している
命日を迎えると
沢山の思い出が蘇る

頑固で気難しい面もあったけど
博学で、切れ者だった父
優しくもあった

星座の話、政治の話、数学や英語
植物の名前、絵画の事 音楽について
どんなことを聞いても
答えてくれた父

今思えば、
パソコンもネットもないあの頃
どこから、その情報を得ていたのか。

本の好きな父で、
家には財産はないけど
本はだけは、あるぞ。
とよく言っていた、


長沢から衣笠に引っ越すとき
蔵書が、千冊を越えていたと
業社さんが、驚いていたっけ

読書から得た知識だったんだろうな


父の記憶は
タバコの匂いと共に
『よっけ、よっけ』
と、私を呼ぶあの声から
始まるのである


いつか、そちらで
また、会う日に
胸を張って会える様に
しっかり生きなきゃ!
と、思う。
だからこそ、
その為に
どんな苦労も、笑って
乗り越えてこれたし。

これからも、乗り越えていく。
今夜も涙が止まらない


懐かしい思い出が
止まらない。