先週、東京競馬場で行われました第83回優駿牝馬

(オークス)は、サウンドヴィバーチェが他馬から顔を

蹴られたことにより、逸走してしまい、15分後に

競走除外になるという予想外の出来事が起こる中

3番人気の桜花賞馬スターズオンアースが桜花賞馬

の貫禄か、直線で鋭く伸びて抜け出し、第83代の

樫の女王に輝き、史上16頭目の牝馬クラシック2冠を

達成しました。

2着には10番人気の上り馬スタニングローズが入り

3着は4番人気で末脚鋭くナミュールが入り、ました。

1番人気のサークルオブライフは発送の遅れが

響いたのか、レース前から発汗が酷く、見せ場もなく

12着に終わりました。

今週は、いよいよ春のクラシックのクライマックス

競馬の祭典、第89回東京優駿(日本ダービー)が

東京競馬場で行われます。

東京優駿(日本ダービー)は1932年(昭和7年)に

イギリスの「ダービーステークス」を範として、目黒

競馬場にて創設されました。

後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「三冠競走」を

構成していて4歳 (現3歳)牝馬による桜花賞・優駿

牝馬(オークス)を含めてクラシック競走とも総称

されています。

そしてダービーに優勝することは、日本の競馬に

関わるすべての関係者(ホースマン)が憧れる

最高の栄誉あるレースとされています。

昭和期では皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、菊花賞は

「最も強い馬が勝つ」、ダービーは「最も運のある馬が

勝つ」と言われていました。

そして日本の競馬における日本ダービーの存在は

特別で、創設期より日本競馬における最大の栄誉ある

大競走とされてきました。

しかし近年は日本ダービーを頂点とする従来の国内に

おける競走体系が様々な距離体系毎に王者を決定

する体系に遷移しており、全ての競走馬が必ずしも

日本ダービーを目指すということがなくなってきている

ことは事実であり、一抹の寂しさがありますが、

その年の競馬を語る時は必ず日本ダービー優勝馬が

挙げられるように、日本競馬界の象徴でありホース

マンにとって最大の目標であるとことは創設以来、

変わっていないと思っています。

思い出の馬は昭和46年第38回優勝馬で疾風の

差し脚の伝説のダービー馬ヒカルイマイです。

ヒカルイマイの母セイシュンは地方競馬で未勝利の

馬で母系をたどると血統不詳の「サラ系」という牝馬

にたどり着く血統だったため、ヒカルイマイは純粋な

サラブレッドと認められず、サラブレッド系種(サラ系)

とされてしまいました。

そのため、購入者もなかなか見つからず処分される

寸前でようやく購入者が現れ、命が助かったものの

二流の血統の烙印と一生戦い続けなければならない

馬でもありました。

低い評価だったヒカルイマイは旧馬齢3歳の京都で

デビューし、5番人気ながらも2着馬に5馬身差を

つけて圧勝し、初勝利をあげました。

その後、特別競走、オープン競走に勝って3連勝を

飾り、無名のヒカルイマイは一躍関西のクラシック

候補に踊りでました。

その後は京都3歳S、オープン競走で2着に敗れた

ものの、3歳時は5戦3勝、2着2回という好成績で

終わりました。

年が明けて旧馬齢4歳になったヒカルイマイはシンザン

記念に参戦し、フィドールの4着に敗れましたが、

きさらぎ賞では破竹の勢いで6連勝中だったロングワン

をやぶって優勝、関西のクラシック候補として堂々と

東上を果たしました。

東上初戦のオープン競走2着後、皐月賞トライアルで

あるスプリングステークスに出走しましたが、メジロ

ゲッコウの4着に敗れてしまいました。

そして迎えたクラシック第1冠目の皐月賞に挑み、当日

ヒカルイマイは4番人気に推されました。

レースはエリモカップが逃げ、ハスラー、ニホンピロ

ムーテー、メジロゲッコウが先行し、その後ろにバンライ

フィドールがつける中、ヒカルイマイはいつもの後方から

の競馬となり、第4コーナーで仕掛けていきました。

直線に入ってバンライが抜け出して一気に先頭に

立つ中、ヒカルイマイは大外から一気に疾風の差し脚

で追い込み、粘るバンライを一気に交わしてクラシック

1冠目の皐月賞制覇を果たしました。

続く、当時ダービートライアルだったNHK杯に出走し

1番人気は関東期待のダコタに譲ったものの、レース

では、いつもの後方から進み、直線で今回は内を

ついて鋭く追い込んでダコタをクビ差かわして優勝。

二流血統として低い評価をされ続けたヒカルイマイは

ついにその実力を見せつける形になりました。

そして、迎えた東京優駿(日本ダービー)、フルゲート

の28頭が出走し、ヒカルイマイは皐月賞馬であり、

NHK杯にも優勝したにも関わらず、NHK杯2着だった

ダコタが何と単勝1番人気になり、ヒカルイマイは2番

人気という今では考えられない異例の状況となりました。

当時の背景としては、28頭という多頭数の中でいつも

最後方から行くヒカルイマイは不利ではということと、

若干の関東馬贔屓もあったのかも知れません。

レースは今では考えられない28頭が一斉にスタートし、

私はこの壮観な光景が大好きだったのですが、騎手の

方や競走馬達は命がけだったと後に聞かされ、

華やかに見える中で、過酷なレースを行っていて

今まで大事故が起きなくて良かったと思います。

ゲートが開くと28頭が一斉に飛び出し、シバクサが

逃げ、その後ろからハーバーロイヤル、ニホンピロ

ムーテーが先行し、ダコタ、バンライ、ベルワイド、

ハスラーは中団を進み、比較的スローペースの中

ヒカルイマイは後方からの競馬となりました。

当時、多頭数で行われていたダービーは後方から

行く馬は、直線で馬群をぬって出てくることは難しく

なるため、第4コーナーでは10番手以内にいないと

勝てないと言われていました。

ヒカルイマイは第3コーナーで最後方の後ろから2頭

までポジションを下げてしまい、第4コーナーでヒカル

イマイは大外に持ち出し、最後の直線に入りました。

終始2番手に付けていたハーバーローヤルが先頭に

立ち、ベルワイドとフィドール、ゼンマツが追い込みを

はかる中、大外からヒカルイマイが疾風のごとく、

ものすごい豪脚で直線だけで22頭を抜き去るという

過去にも例が無い、前代未聞の追い込みで2着の

ハーバーローヤルに1馬身4分の1の差を付けて

ダービーに優勝。

サラ系として二流血統の無名の馬が晴れて

クラシック2冠制覇を果たしました。

これ程強い勝ち方で二冠馬になったヒカルイマイは

無事に夏を越せば、菊花賞を制し、シンザン以来の

三冠達成は間違いないと言われていました。

ヒカルイマイはダービー後、休養に入り、秋に復帰して

緒戦のオープン競走を3着後、菊花賞トライアルの

京都新聞杯に出走しましたが、まさかの9着に

敗れてしまいました。

その後、当時も不治の病とされる屈腱炎を発症した

ことが判明し、長期休養に入りました。

関係者による必死の努力も空しく、症状は一進一退

を繰り返し、最終的には2年間休養したものの、

脚元の回復が思わしくないため、引退が決まり、

ファンの前に姿を現すことはありませんでした。

その後、北海道の新冠町で種牡馬となりました。

しかし、種牡馬としてはサラ系という血統がやはり

影響し皐月賞、ダービーを勝った二冠馬にも関わらず

また当時の内国産種牡馬不遇の時代でもあった

ことから、種付け頭数は極端に少なく、一時は廃用

という余生が危ぶまれた時期もありましたが、多くの

関係者の愛情と計らいにより九州の服部牧場で

種牡馬として再スタートを切ることができました。

しかし、結局代表産駒には恵まれませんでした。

そしてその後、ヒカルイマイの行く末を懸念した一般

ファンの有志による「ヒカルイマイの会」が結成され、

集められたお金が年に数回、飼料代として服部

牧場に仕送りされるなど、ヒカルイマイは本当に

多くのファンに最後まで愛された馬でした。

そして1992年7月21日、朝ヒカルイマイは普通に

放牧され元気でしたが、夜に厩舎に戻って来ると

厩舎前で動こうとしなくなり、何とか厩舎内に入れると

息づかいが荒くなり、カイバや水も飲めない状況に

陥ったため、獣医を呼ぼうとした瞬間、その場に倒れ

苦しまずに息を引き取りました。

享年25歳、死因は心臓麻痺だったようです。

その後、「ヒカルイマイの会」が緊急時に備えて積立て

いたお金を今までのお礼として服部牧場に送った

ところ、服部牧場は、その多くのヒカルイマイのファン

の優しい心情を受け取り、その資金で同年11月3日

同牧場内において、ヒカルイマイの立派な墓碑を

建立しました。

今週は東京競馬場で春のクラシックのクライマックス

競馬の祭典、第89回東京優駿(日本ダービー)が

行われます。

皐月賞上位組からイクイノックス、ダノンベルーガ

ドウデュース、巻き返しを図るアスクビクターモア

キラーアビリティに注目しています。

先週のオークスのように突然何が起こるか判りません。

昭和44年スタート直後に1番人気のタカツバキが

落馬という出来事もありました。

今週も全馬の無事を祈りながらレースを観ます。