本日、5月4日は、私が大ファンであった名馬ハイセイコーの
命日で早いもので、今年で没後20年なります。
当時、牧場めぐりツアーで、お世話になっていた牧場関係者の
方に前々からハイセイコーに何かあったらすぐに駆けつけるので
知らせて欲しいとお願いしていたものの、その日が永久に来ない
ことを祈っていました。
しかし2000年5月4日、ついにハイセイコーが亡くなったという、
できれば永遠に聞きたくなかった訃報が入りました。
一般ニュースでもトップに報道され、翌日のスポーツ紙は各紙
一面で怪物であり国民のアイドル馬であったハイセイコーの
死亡を伝えました。
牧場の方から、告別式(お別れの会)の日程も教えて頂き、
ハイセイコーファンである高校時代からの友人2人と共に
お別れ会に参列のため、北海道に向かいました。
お別れの会は、5月18日に新冠町にあるレ・コード館で行われ、
牧場関係者の他、主戦ジョッキー増沢元騎手やJRAからの
代表者、全国から来たファン等、大勢の人達が参列しました。
私が東京から送ったお供物も祭壇に飾って頂き、献花により、
ハイセイコーに最後の別れを行いました。
多くのマスコミが取材に来ていて、献花の時にはフラッシュを
たかれるは、インタビューをされる等、少々戸惑いましたが
ハイセイコーファンとして見送りをできたことは本当に良かった
と思っています。
翌日は、ハイセイコーの終焉の場所である、当時の明和牧場に
行き、牧場の方からハイセイコーが最後に横たわっていた放牧地
の場所を教えて頂き、友人と共に手を合わせました。
その放牧地にはハイセイコーの生きていた痕跡が生々しく残って
いて、つい最近まで元気に過ごしていたであろう在りし日の
ハイセイコーの勇姿を思い浮かべながら、しばらく感慨にふけり
ながら佇んでいました。
亡くなった時、既に調教師となっていた増沢騎手がたまたま
北海道にいたことも、何か強い繋がりを感じざるを得ません。
あれから早いもので20年の歳月が流れました。
競馬は面白いもので、強い馬が人気があるわけではありません。
記録だけでなく、ドラマがあった馬がファンの記憶に残ります。
ハイセイコーはマスコミが作り上げた偶像であるとかいう人も
いますが、過酷なローテーションの中で、勝っても負けても、
いつも全力で一生懸命に走ったハイセイコーの姿に人々は心を
打たれ、子供から大人まで老若男女を問わずに愛されたんだ
と思います。
私も苦しい時や辛い時はハイセイコーを思い出し、そしてどんな
時でも、いつも全力で一生懸命に頑張ってきました。
また、私もファンレターや年賀状を出しましたが、現役時代は
府中市ハイセイコー様で、引退後は北海道ハイセイコー様で
郵便物が届けられたというエピソードがあります。
更にマガジンでは、競走馬で初めて表紙を飾る等、日本の歴史
において、昭和48年の顔となっています。
これほど国民的な名馬は、もう二度と現れないと思います。
私は命ある限り、ハイセイコーのことを語り継いでいきたいと
思っています。