Le 7 juillet 2011
東京大学 山上会館
「Le sinthome;ル・サン‘トム」
Cabinet de Medico-Psy Φ
白石 潔
1. はじめに
ジャック・ラカン(Jacques LACAN)は、口頭伝達による知の伝承を重んじた精神分析の講義を貫き通した。晩年にあたる1975年-1976年のセミネールは、「Le sinthome;ル・サン‘トム」についてのものであった。この表記は、15世紀に表記され現代でも医学に於いては一般用語の「symtome(=フランス語ではサントムと発音、symtome英語ではシントムと発音、日本語の翻訳では症状と意味付けされている)」を、ジェームス・ジョイス(James Joyce)の文学的表現の特異性に着目した講義録であり、“大学の講座の基盤作りの創始者"として位置付けられうるサン・トーマス・ダッカン(Saint Thomas D'Aquant)の理性・自然神学者を意識して、医学界では一般表記でない「sinthome←s(a)int’home(?:白石」として造語的綴りをラカンは採用した。
いずれにしても「Le sinthome」のセミネールでは、ボロメオの輪(図:セミネールp62下の図:3つの輸で構成されたある特殊な構造を備えた結び目で、3つの輪のうち一つの輪が切れてしまうと他の二つの輪は各々原型を保ちバラバラに切り離される特性で、数学で取り扱われる結び目の理論のモデルで、この結び目は無限大に構成される特性を持っている)の備えた特性を論説・解説しながら精神病について語った講義である。同時に「Joyce le syntome」に記載されている人間の精神構造には、フロイトが分析の対象としたシュレーバーの著作から精神病の「愛を中核にした主体の論理的存在様式」とは異なった構造を「sinthome」が担っている必然的構造にも触れている。しかし、ラカンの数学の対象となる結び目への着目による理論化は、人間の基本的精神構造と精神病の症状で社会生活に支障を生じさせる状態を、「結び目の数学」を採用することで精神病の治癒像を可視化可能なものとして提示した最も重要なものと考えられる。
ジャック・アラン・ミレールによれば、「Le sinthome」で提示した結び目の数学理論とラカン理論の科学的体系化の過程で、ラカンはかなり寡黙な状態にあったということや、或る一群の学徒達からは、彼の文字の記述がかなり乱れ、周囲の分析家達が心配していたという証言もあった。<ル・サン‘トム>の課題は簡単そうで複雑であり、数学的方法論とフロイト的無意識を前提としたラカンの人間の精神構造の構造式と、コジューブの講義に影響を受けた「ヘーゲル理論に於ける自己意識」とを根本原理に立脚させて、「コトバを喋るフロイト的無意識の主体」を可視化した方法論で、理論化の過程は大変な作業だったと思われる。ラカンはセミネールを通してフロイトの理論を原点に、無意識をソシュール、レビーストロースに起源を持つ構造主義的言語学や文化人類学を考察し、アルゴリズム的に言語を構成するソシュール的シニアィアンとシニフィエの言語構造としての概念を、シニフィアンの連鎖として捉えることで、数学的な次元での論理性への道標を構築することから始め、鏡像段階からL図、欲望のグラフ、フロイドとは違う洗練された形式で光学モデルを採用することを可能にした。
また、「言葉を話す、語る、人間とシニフィアンの構造」をメビウスの帯を中心にトポロジー的方法論で捉え、幻想の構造をクロスカップ(=Cobordismeからも抽出できる)と言われる位相幾何学では2本の線がクロスした十字形の三次元的形状が埋め込まれた空間を提示し、<主体と対象aの構造>を抽出した。さらに、「言葉を話す語るフロイト的無意識の主体」の「語りの構造」を「マテーム:数学的論理要素式」によって示すなど、ラカンは人間の精神構造の数学的次元での可視化を徹底して試みた。この様な科学的方法論の提示は、フロイトが試みた光学モデルの後では、ラカンが、唯一の精神分析家であると考えられるべきである。
2. ボロメオの輸と日本の輪違い紋章
「輪違い文化」は、日本の家紋の歴史に形を変え見られ、九州の島原に由来する現在も唯一花魁(おいらん)が居る京都の御茶屋の屋号に見られる。この輸違いは、ラカンのセミネールでは「オリンピックの輸=Hopf rink(図:本文92ページ下左の図)」として示されているが、「二つの輪で結ばれた結び目の構造」で、基本的には「ボロメオの特異性」ではないが、セミネールで苦慮しながら提示した結び目の数学とは違う方法論によって見出すことができる。
つまり、ラカンがこと細やかに説明に説明を重ね提示して行き着いた結論としての四つ目の輸によって成立するボロメオの輪に行き着く過程ではなく、ラカンが求めた結論である「四つの輪で構構造化されたボロメオの輪」を前提とした方法論であれば、幸運なことにラカンの提示した「オリンピックの輪がボロメオの持つ三葉結びの特性を有しない三つの輪」として抽出することができる。単純に、紹介すれば、メビウスの帯を1/12の幅で切断して行くと、2つの向き付けのある2本×3=6本の帯で構造化されているオリンピックの輪の結び目を抽出でき、2本の向き付けのある帯を糊で張り合わせると、3つのトーラスがオリンピックの輪の結び目を出現させることが可能なのである。
そして、日本の輪違い文化の紋章は、殆どが「オリンピックの輪」の特性ばかりなのであるが、京都の宮川町では、御茶屋の屋号の提灯や盃には、「ボロメオの輪」が描かれており、優雅な風景を沢山見ることができる。この発見は、ラカンの研究の次元に在る「Le sinthome;ル・サン‘トム」のセミネールに我々日本人が、文化に属する感覚的な次元で、身近なものに触れられた気持ちにもなれる。
いずれにしても、ラカンの論の進め方は、「三葉結び」を提示することで、「結び目の数学」への扉を拓き、「オリンピックの輪」の特性を明らかにしながら、「ボロメオの結び目の特異性」を徹底的に、様々な数学的様相を示しながら、「Le sinthome;ル・サン‘トム」という結論に導いてくれたのである。
ここで、構造主義の父であるソシュールの構造言語学は、シニフィアンとシニフィエを一枚の紙の表と裏として提示していたが、ラカンはそれを「メビウスの帯」として捉え、裏と表がない向き付けのない連続した単側性の特性にソシュールと違った構造で、「言語を語るフロイト的無意識の主体」の構造が、「シニフィアンの連鎖」として機能していることを発見した。ある意味、この事実は、一般の人々には、ソシュールのシニフィアンとシニフィエの構造を言語論として錯覚して捉え、現象学的意味論に陥ってしまう性質も持っている。ここに、ラカンの提示した想像界をメビウスの帯の全体としての構造ではなく、「言語と主体が、フロイトの研究を重ねながら、無意識の言葉を喋る主体と提示したラカンの論説」が部分的に陥る落とし穴があり、「意味論的な主体=Ich=デカルトの思惟としてのコギト=Cogitoと捉えようとしてしまう状況」が成り立ってしまうと筆者には思える。この発見は、フロイトの例証した「夢」・「機知」・「言い間違い」・「失策行為」・「健忘」・「症状」としてしか現われえないフロイト的無意識こそが精神分析の真髄であることを確証し、創始者である「フロイトヘ帰れ=フロイトに精神分析の基本の全て有り」と標榜するに至ったと、筆者は考える。
3. ジェームス・ジョイスからサントームヘの道
ジェームス・オーギュスチンヌ・アロイシス・ジョイス(James Augustine Aloysis Joyceは、アイルランドにて1882年2月2日に誕生した。1898年16歳でダブリン大学へ入学し、フランス語とイタリア語を学んだ。1901年に医学の勉強を志しパリに留学するが、父親の事業の失敗による経済的問題で止む無く帰国せざるを得なくなった(ラカンが紹介しているジョイスの父親像とは異なる)。その後、第一次世界大戦を逃れる為にチューリッヒに滞在し、大戦後はトリエステの妹アイリーン宅に滞在し、1922年には精神病に苦しんでいた娘ルーシー(ユングにも治療を受けた)を連れ、家族ぐるみでパリに移住している。ジョイスは、パリ時代にその才能を認められており、パリの文壇では名前は知られており、幾多の文筆家達との交流があった。ラカンのセミネールでは「ジョイスとの出会い」が述べられているが、「好奇心に燃えた早熟なラカンがちょうどまだ医学生であった時期に、ジョイスとの出会いが在り得たかも知れない?」との推測もされてしまう。
ラカンはジョイスの「Finnegans wake」を聴衆に、「内容理解を意識するより、むしろ読むだけで十分である」という旨を表現している。ジョイスの表現様式には、マラルメの視覚に訴えるような表現法を採用すると共に、詩人が意識して音韻化を試みた表現法や「M」という文字をイニシャルにした音韻とは違った選択性の単語表記法や造語が多々見られる。ラカンの提示したフィネガンスの読書法は、ある意味、「意味を理解することを前提とせず、仏典の教本を読む基本的な仏門修行の基本的な在り方」に繋がりを見出すことが可能である。当然、ラカンが主題とした「精神病とジョイスの文学的表記法とそれによって構成された小説による精神病構造への修復可能性」を、「Le sinthome=ル・サン‘トム」の機能として明確にし、精神病の発症を免れる構造があること、と同時に、「精神病の治癒像」を論証したことになる。
4. 精神病と構造について
ラカンが抽出した精神病の概念は、フロイトが直接的な治療関係を体験せず、シュレーバーの著書を通して成された精神分析的見解を土台にしている。フロイトは、シュレーバーについての精神分析特性を「同性愛の否認」として捉えたと簡単に表現できる。シュレーバーが呈した症状が「同性愛」という重要な視点に絞られていることから、「同性と愛」の構造が「主体と他者との関係」に於いて「どのような構造」を成し、幻覚・妄想状態の症状が出現するのかの原理が見出される。
ラカンは、主体と他者との関係で展開する「愛の弁証法的に形成される様式」を、「主体にとっての愛が理想自我の場に座する他者と主体の関係」として捉え、「羨望による自己愛的対象として存立する、自己排除型の動態の他者への同一視のリビドーのベクトル化」が、「理想化された他者からの迫害として主体にベクトルの反転化の弁証法的論理性である」ことを、フロイトの分析的見解から見事に掘り出した。
このリビドー対象へのベクトルの反転化は、その対象に据えられた他者を憎しみの対象として定位させてしまうことになる。ラカンの博士論文に提示されたバラノイアの症例に見られるこのメカニズムは、迫害的で憎しみの対象である他者への殺害的情動へと向かわせることを提示した。つまり、症例エメの如く「エメに対し迫害する対象になった女性を殺害するつもりで他害に及び、その行動化によって、ある意味治癒状態に至るという」ことの解釈となる。この治癒の状態は、通常の相互安全保障を法的秩序によって成り立たせている社会生活環境では不可能で、この不可能性にラカン理論の「真髄である鍵概念である“父の名”のテーマ」がある。
そして、この論理的な構造が、シュレーバーの体験していた「世界の救済者としての“神の妾”」であり、「フレジッヒ教授への“憎悪を伴っていたはずの真実を貫く訴え”による裁判であった」という考察も可能と思われる。
ラカンは、フロイトの提示した狼男の症例が一過性に呈した幻覚症状に関して、フロイトが表現した「Verwerfung=排除」に着目し、そこに理論化の可能性を確信した。この排除の概念こそが、「人間が言葉を話す語る主体として成らしめる条件が如何なるものであるか?」を示したことになる。ラカンは、精神病に関してその構造を「父の名の排除(=Forclusion de Nom du pere)」と呼んだのである。
ラカンは、初期からボロメオの輪の特異性によって示した「Le sinthome:ル・サン‘トム」のセミネールに至るまで、人間を「コトバを語るフロイト的無意識の主体」として「言語との関係で論理的構造」を追求し続けた。ラカン理論の構造の骨格は、「現実界(Reel)」・「象徴界(Symbolique)」・「想像界(Imaginaire)」という3つで成り立っており、<この三つの構造態が合体した構造として“フロイト的無意識の主体”が成り立っている>と理解できる。
R・S・Iは、「現実界」・「象徴界」・「想像界」という日本語で表記された漢字として理解されており、ジャック・ラカンの数理論理式であるマテームの要素を持ちながら、ラカン理論のメタ・サイコロギーを提示している。この三つの構造的要素は、ボロメオの輪乃至はボロメオの結び目で現されるものとして提示され、この結び目の特性は、三つの輪で構造が成り立っており、三つの輪のどの輪を切断しても全てがバラバラになってしまうというもので、物理学ではこの結び目が空間内に現れることは大変な事であると形容されるような代物である。*イタリアのボロメオ家の紋章が歴史・文化的に代表されるが、京都の宮川町の屋号は、正しく、それと一致しているという発見に繋がっている。
ラカン理論は、あくまで「言語を語るフロイト的無意識の主体」を前提として全ての体系が論理的に論じられている構造式で成り立っている為に、「構造=数学」という基本的命題を無視する事はできない。ボロメオの輪は、「現実界」・「象徴界」・「想像界」の三つの輪で構造化されている結び目であると同時に、人間の精神構造の表象であり形象化である。
「現実界」とは、ラカン用語でフランス人にとってもこの用語だけでは言語的に「どうしようも成らない“理解”」に陥ってしまう難解なものである。ラカンによれば<「象徴界」に属する事の言語的不可能性が、言語の隠喩・喚喩によって構造化されている“網目から抜け落ちている世界”>を意味させているという事ができる「言語的次元」で、<“主体”を「想像界」で縁取っている“シニフィアンの連鎖”>に組み込まれることが“不可能”でかつ“表記不能”な<現実的な“人間界”>とでも形容できる「数学次元の構造体」と云える。生まれたての<“新生児・嬰児”の“自他の区分けが無い状況”で在りながら“大文字の他者を原型にしている言語次元に在る人間関係の原本的構造”に“棲息している構造的世界”>と、新たに定義付け出来るかも知れない。
この状態は、<瀕死の“無意識の状態”>とは、似て非なるものである。この状態は、構造的に<生物学的因果的欠損が起因している状態>であるからで、前者は、<三要素の構造体>として生きている状態であるからである。乃至、“三要素構造体無しには”<言語を喋るフロイト的無意識の主体へ至る道筋が見出せない状態>を生きているからである。この事実は、<生物学・生化学・生物学次元の生理学及び物理学的原因>による「医学的診断としての意識障害に属する無意識状態」とは<構造を異にしている>ことを絶対的な理解の根本にして置かねばならない。
「想像界」とは、ラカンによれば<“自分”と“自分の鏡像”との関係性で“生み出される構造”>と、端的に表現できる世界で、“精神分析的”には、<自己愛の構造式>であると同時に<“理想自我”と“自我理想”の精神力動>で、<“同一視”にまつわる“去勢”を巡る“構造力学の動態”>という次元にあるのである。<“鏡像他者”は、通常、臨床次元で考察すると8~12ヶ~18ヶ月の子どもには母親(=大文字の他者)の“眼差し”によって“自己の鏡像”を「鏡に“写っているのは、あなたですよ!”と、“他者としての承認された場”が提示されている」>という構図が、子どもの母親との体験の構造としてあることも見逃せない。
しかし、「想像界」は、ある意味では我々の他人との関係で培われている世界という事もでき、ありとあらゆる物に付いてや人の発言等が世の中を埋め尽くしており、ある種の無秩序を構築しているように見える世の中を生きている状況とも言える。単純な思い付きや非科学的なものや新興宗教や場合によっては、宗教そのもの(=Kantに由来する原理的起源論の論理性の要素の抽出)も、「想像界」の産物と云える。メディアを通して体験している事も同様である。所謂、神経症的・倒錯的世界の総体と形容できるぐらい、全ての病気の温床であり、ラカンは、筆者によれば、「“Syllogisme(=アリストテレス以来知られている三段論法)”に拠って保障されている、思考同一性及び知覚同一性を大前提に成立しているフロイトの現実原則を危うくしてしまう“jouissance(=現実原則を保障出来ない言語次元のシニフィアンの動態)”と“人間の精神的病”を、我々に提示していたことが理解できる。
「象徴界」は、ラカンによれば<“人間の他者性”を保障する“言語の世界”>で、<法・掟・法則>等が「言語=構造(隠喩・喚喩)=数学」として成立している<他者の“場”>を占めている世界と云える。この「象徴界」は、世界の全てに対する歴史・民族・文化を含めた構造体が<「機構」・「構成」・「機能」・「組織」・「規制」・「機序」>という「要素」を持ち、常に<それ以上でも、それ以下でもない事態>を、フロイトの第一トピックスである「経済」・「力動」・「経済」という<エネルギー作用のエントロピーの崩壊>が生じないように<自己保存の本能力学>の調整が<「他者」の「場」>によって成されている世界で、<精神分析家の分析者>に対して<“座している「場」”>と云える。これこそが、社会の中で生きる<「想像界」に惑わされずに生きる「大文字の“他者の場”である」>という事になる。
「師家」といわれる<禅の高僧>も同様の「大文字の他者の場」を生きている<存在者>といえる。「白い物は白く、白くない物は白くない!」といった類の<数学的論理的構造>である<言語の使い手>であり、ラカンは<この様な語りを“分析家のディスクール”>と命名した。
新生児・嬰児を例証したが、発達を保障できる要素とは“三者構造体”とはこの<「象徴界」を示唆する「大文字の他者」>であるシニフィアンを暗示しており、ラカンは「このシニフィアンを“ファリュス(=Φ)”と名付けた」ことで、<「言語=構造=数学」として、“言語”を“シニフィアンの連鎖”としてみなし“数学的アルゴリズムと位相幾何学と数理論理学”の“構造”>を可能とし、精神病の構造に<想像界の欠損>が生じてしまう様を提示した。
「父の名の排除」についての理解は、「言葉を話す、語るフロイト的無意識の主体」にとって「想像界が構造化され得なかつた」ということになり、精神病者は「妄想という言語の持つ意味作用を拠り所にしてその存在を保証できる場を創造しうる体系を、象徴界の機能に絡み付かせた構造によって生きている」という存在様式となる。この考えによって我々が認識できることは、「被害妄想を呈する精神病者に見られる被注察感や被影響型」の症状が、「全て他者の場から送られてくるメッセージ」として構造的に成り立っているという事実でしかないということになる。つまり、去勢を体験することによってしか成し得ない、他者からの「汝とはかような者である!」というメッセージを受け取り、想像界に埋没している「我=語る主体=言存在」を救済し、「他者として生きる」という次元に達した在り方として生きることが不可能な事態である、という理解になる。
幻覚症状は、フロイトが概念化した無意識の実存的様態として人間が体験している夢(=睡眠時に体験している幻覚で、フロイトの提示した第一局所論である力動的・局所的・経済的メカニズムと第二局所論=エス・自我・超自我の主体に作用している願望充足の判じ絵)と同様の機序で出現する「実在し得ない対象を表出している現象」という理解になる。この事態を「言語によって表すことの不可能な現実界」が、コトバを語る主体にとって想像界の構造化不能であった事を起因とする「封印されえなかったモノが溢れ出ている現象」と考えることができる。「耳なし法一」を例にとれば、法一は身体に文字を表記したが“文字が記されえなかつた耳が切り落とされる”ことの解釈に繋がる。この事の理解は、「鏡像他者を通しての象徴化され統合された身体像を形成できないが故に、想像界が構造的に欠損している」という事態で、ラカンが表現した“寸断された身体”ということになる。
そして、「耳」が比喩的に示しているものは「声」の存在であると同時に「目」を通しての眼差しと考えることもでき、考えを深めれば「原光景と近親相姦と禁止」のテーマが見出され、ラカンの提示した対象aとの関連が理解できる。この精神病的現象は、「去勢を内在化して生きる」ことの不可能性を物語っていることになる。
フロイトはシュレーバーのパラノイア精神病を精神分析的に論じ、ラカンもその流れを尊重しパラノイアの臨床的研究から精神病についての論説と理論の構築をした。ここで、日本では病名が“統合失調症”と改変された精神病に触れておく必要がある。まず、精神医学のカテゴリーでのパラノイアの診断は、「嫉妬心」・「(権利等の)激しい要求」・「主観的基準による絶対的価値観の主張(=訴訟癖が日立つ)」・「理想主義」・「支配的優位性への執着」・「融通の利かぬ固い性格」などの兆候学的特性を示し、被害妄想や迫害妄想を症状として呈する病態である。この臨床的病態は、他者との関係で構造的に位置付けられる「自己存在の意味」を巡って、「病的な意味付け」に陥っている状態である。つまり、語る主体を「他者との関係で言語的座標にどのように位置付けできるか?」という病態であることから、言語とそれを喋る主体の構造を妄想体系で確保することになる。そこには、自罰性・他罰性・自己批判型の病理特性もあり、うつ病との関連も見逃せない。統合失調症に関しては、構造的欠陥としてしか捉えられないが、ラカン理論に於ける構造的欠陥とは、「人間として欠陥を抱えている」という意味として理解してしまうと、誤謬もはなはだしい結論になってしまう。
ラカンの理論による精神病の構造は、想像界が構造化されていないことによって生じる補填されたものとしての産物が、「幻覚・妄想などの症状として出現する」という理解になる。フロイト的無意識を前提とした「言語を話す実存的人間存在」を「語る主体」として捉え、「言語と無意識の主体」との構造として理解することがあくまで前提となっているからである。この基本的な構造の仕組みが、ラカンが提示した語る主体とシニフィアンの連鎖によってしか、主体を見出せないということである。つまり、「主体が話すないしは語ること」がパロールであり、主体とシニフィアンの連鎖との関連で見い出されるものがディスクールとなり、ラカンがマテームとして構造を明示したものになる。
5. サントームヘの道
ここで我々が到達した道標が、「如何なる方法を持って精神病を構造的に抽出できるか?」という事になり、「精神病の治癒の構造をどのように可視化できるか?」という命題になる。ラカンが「Le sinthome;ル・サン‘トム」のセミネールで提示したボロメオの結び目にそれを解明する鍵があり、精神病の構造に欠損している「実存的に言葉を話す言存在としての主体が決して得ることの出来ぬ対象aを巡って構造化される想像界」を「どの様な方法にて構造化することが可能であるか?」という命題を解き明かしたことになる。
ジョイスの「ワードフレーズ、センテンス、係り結び、語源から派生する造語」などをアイルランド出身者の英語の表現様式と形式で表出されたものを「ジョイス語(=多文化歴史的言語型表記)」とすると、ラカンがジョイスの著作を通して見出した「精神病の構造的様態」は、精神病についての構造論的視点からの命題の解が必然的に見出されたことになる。しかも、「ボロメオの輪」を通して我々が出会う世界は、「結び目の数学」が秘めている数学者がエレガンスさに憧れる美学を供えた様相が現れてくるのである。
結論から言えば、ラカンの4つの輸によって構成されているボロメオの輪の結び目(図;本文94ページの上の図)は、一つの可能性として、比喩にしか過ぎないが、「結び目の数学」を、「ベクトル量及びスカラー量」で計算した場合に、「結び日や絡み目の不変量のジョーンズ多項式による計算で、正の数値とその逆数値が完璧に対称数値を割り出している」との比喩は、完全否定できないかも知れない。しかし、ジャック・アラン・ミレールがこのセミネールについての「結び目についての注釈論文」でラカンの講義で示された三葉結び=クローバーノット(図;本文92ページ下左の図)に触れているが、イメージとしての実態像は鏡像として成立していない為、結び目・絡み目の不変量のジョーンズ多項式による計算で得られる値は対称性を持っていないということになると理解せざるを得ない。
然しながら、結び目の数学には必須のジョーンズ多項式では、グロタンディークが苦慮して見出した「コホモロジーの補空間」の数学的論理が表記され、メビウスの帯の「ある意味でしかないが、仮に、実像の光学モデルの数量化を可能とするとすれば、位相不変量が計算値として証明できる」ことを明らかにしている。この数学的論証科学の証明過程に隠された事実は、「鏡像の実像的次元が、物理学的に、鏡像とは異なる、位相不変量としての計算値で表記しうる可能性」をジョーンズ多項式に見出し、「ポワンカレ予想を、研究し続けながら、半ばで断念せざるを得なかったサン・ストーンの研究過程」を逆説的に理解することが可能な次元になる。フィールズ賞金を受け取らなかった、ポアンカレー予想を解いたペルリーマンが解いた“解”は、「可能性としては、数学界では、無条件には受け入れらない可能性のあり得た、個別の特殊な数理・物理学の混在した数学的論法」であった可能性があり、多分、歴史的には存在し続けた数学と物理学の質量的様相科学の様相が、齟齬を学術界で受け入れることの統合的科学的視点の欠如」が両陣営の研究者を苦しめてきた可能性がありうるとしてか、在野の人間には、理解できない。
「Le sinthome;ル・サン‘トム」のラカンのセミネールに於ける筆者の結論は、まずシュレーバーが示した「排除された父の名の代理機能を“神との関係で神の女としての位置付けによる世界の救済者となる”」という妄想的文脈をどのように理解するかという問いから始まる。シュレーバー型の精神病者は、記号としてしか成立し得ない文字や数字を儀式・形式化して「特別な意味を形成・体系化」を構築し、その妄想体系が論理的体系としての枠組みを創造しシニフィアンの連鎖を主体に対してかろうじて保障する。つまり、「シュレーバーは、妄想という論理体系によって自分自身を主体として確保する」という構造になっている。そして、ジョイスに見られるように「ラカンによって見い出された父の名の排除によって構造化される精神病」が、文学・芸術などの創造性の形式や純粋学問の探求から産出される新しい世界観などで、精神病の発症を食い止める機能として作用しうるということになる。ラカンは、このことをセミネールで「4つ目のsinthome;ル・サン’トムという輪で構造化されるボロメオの輪」として、結び目の数学で証明したのである。
つまり、「Le sinthome;ル・サン‘トム」/ボロメオの輪∪ボロメオの輪/1×3つの輪∩∈トーラス(=象徴界)∴「Le sinthome;ル・サン’トム」=1つの輪∈4つの輪で構造化されているボロメオの輪の特異性=R.S.I.=「コトバを喋るフロイト的無意識の主体」という数学的次元のエクリチュールを発見することができる。この事実は、「Le sinthome;ル・サン‘トム」は、「ボロメオの輪の特性」を指し示すシニフィアンであり、「ボロメオの輪の特性」は、「Le sinthome;ル・サン’トム(=精神病の治癒像)」を指し示すシニフィアンとなっている構造が見出されることになる。
このマテームは、S1/S⇒a∈S1→S2/$と論理的根源的構造を想起させ、不思議なことに、シニフィアンS1→S2のシニフィアンの連鎖を原本的論理学の構造によって、我々、人間と言語の構造的相関性の純粋な様相を紡ぎださせたことにもなっている。
6. おわりに
フロイトの研究は、ヤツメウナギの神経系の電気的ニューロンの伝播から始まっているが、現在のニューロ・サイエンスの次元から考えてみると、複雑な神経回路全般を包括しているシナプスの研究者であった、と考えることが妥当であると思われる。つまり、フロイトは、出版されることを嫌がったといわれる「科学的心理学草稿」に、基本的な生命保存原理のために必須の神経学的エネルギーの動態の様相をニューロン・モデルで模索し、最終的に「快原則の彼岸」に至った。そして、「この無意識の原本」には、コジューブのヘーゲルの「精神の現象学」の講義録で、我々が知り得る「“自己意識”の原本」に、完璧な論理性を以て合致していることを忘れては為らないと思われる。さらに付け加えていうならば、フロイトの無意識理論には一貫して「情動」と「欲動」のテーマが論じられており、欲動に関しては「フロイト自身が結論に至っていない」といわれているぐらい大きな課題である。
当然、エディプス・コンプレックスを乗り越えての人間の外的対象に向かうリビドーというエネルギーが、死の欲動といわれるタナトスとの関連で「生と死」を抱え、「どの様に生き得るのか?」という命題といえる。脳生理を始めとする脳科学でも「情動」と定義されたものは、物理量として計測されたことはないし、心理学の領域でも曖味なままである。ラカンは、「情動」を想像界の領域に位置付けた。多分、フロイトの「情動量の放出が不全な状態では、身体化・不安・強迫の様態に変換され症状化する」という理論と、「情動とは、それそのものとして我々は意識することが出来ず、感情に変換され体験される意識でしかない」という様相があることから、「ラカンは、あえて情動を想像界の領域に据えた」と考えられる。
最後に、フロイトの発見した無意識を通してしか考えることの出来ないラカン理論は、一般には「言語と言語を話す実在的存在である人間が、フロイト的無意識の主体である言存在である」との理解に成り立っていると思われる。ラカンは、様々な論説でデカルト的コギト=思惟的主体や間・主観的な意識の指向性を持つ人間存在として捉える現象学を超えて、無意識の主体が如何なる者で在るかを示した。メビウスの帯は単側性の帯である為、帯を一周した所では出発点の丁度裏に達していることになる。これは、ソシュール的言語の恣意性として成り立つシニフィアンとシニフィエが紙の表と裏という比喩的表現に代表される。
精神分析は、あくまで分析的関係性に立ち現れてくる無意識の様相を扱いながらの治療技法である。フロイトもラカンも終始「無意識の探求」を行った。筆者にとって画期的なことと思える世界は、微弱電磁磁気誘導態として複雑に構造化されている人間の生命保存とエネルギーとの関連性ヘの道標、及びラカン理論の行間から読める数学・量子力学・素粒子論を想定しなければ、解に導くことの出来ない命題が提出され解かれていることである。