「日本の現状と少子化問題とこどもの現状」

 

 さて、2024年4月3日の時点で、我々日本人は、先験的な解決策を以て対処して置かねばならない深刻過ぎる少子高齢化の潜在的被影響型の多次元的問題の解決法の糸口が見えない状況を生きている。この様な状況であるが故に、今日の日本社会の現状で観られるこども達の問題の起源的要素をしっかりと考えなければならない状況を強いられている。

 まず、自民党の裏金問題に触れて置かざるを得ない。何故ならば、敗戦後の日本の新憲法は、「民主主義国家」を前提にして成立している「三権分立」に基いている「憲法の遵守」が原則である。そして、国政選挙のみならず地方選挙に於いても「県・市町村民によって成立している国家の定義付ける国民の信任」による「民主的多数決の原理」で成り立っており、「信任を受けた議員」は、「国家を成り立たせている国民」に、「不利益や不安や疑惑を生じさせてはならない」ことが、「議会制民主主義の運営」で、義務付けされていることが前提であるからである。特に、国会議員の場合、未来の日本の在り方を決定付けることを任されている法律を制定できる「立法」の立場での責任が自覚されていることが前提となっているはずである。

 このように考えると、今回の自民党の裏金問題は、「民主国家を担う国民」に対しての「背信行為」と考え得る。つまり、我が国日本では、「被影響型の悪性の影響現象が起きやすい特性」があり、「国家を成立させている国民」が、「自らに対しての背信行為」に走り易く、「法に触れる行為を犯す危険性」を孕んでいるのである。

 「司法」・「立法」・「行政」という「三権分立」の三要素の「構造的力動」が生み出す「法的機序によって産み出される良性の有機的国家運営力動」が、「病的悪性の運営力動」に陥ってしまい、「国税」が、「未来の安心できる国家運営力動態を保証できない状況を生み出してしまう危険性がある」としか考えようがない。つまり、日本の「少子高齢化による被影響型の悪性の未来像」への「予防的対処法である処方箋」が処方されていないままに、懸念されている「想像を遥かに超えた事態」に遭遇する危険性があるということである。

 「自民党の裏金問題」は、日本人が、歴史・風土・文化的に有しているはずの「潜在能力」を地に落としてしまい、「無能化」に至らしめてきた政治状況が暴露される以外にはないかも知れない。強いて言えば、「民主主義」を弄んだ可能性さえあり得る。つまり、日本の悪しき「利権主義に基づいた全体主義への傾倒」を意識的及び無意識的に「議会制民主主義」を巧みに利用しながら企てきたとも言えるぐらいのことになりかねない。

 ここで、「日経株価の上昇」が、「バブル期の株価を上回る」との日本の経済状況が報道されているが、「一般的な国民の経済状況が豊かになっているのか?」を考えてみると、ある意味、「高齢者の介護保険」の確保のために、「年金からの天引き支払い」の開始などを参考にすると、「国民の豊かさ」を保障できる状況までには至り得ないという考えに至る。多分、この現象は、加速していく可能性があり、修正の不可能性を抱えていると同時に、「財務省及び厚労省」の「日本人の基本的な豊かな生活づくりとその財源の確保」という命題に対しての「構造的に算出できるデザイン」を長年に渡って放置してきた責任が明確になるであろう。

 ところで、円安が加速して行きつつある国際経済の中における日本の経済の分析を如何に行うことが、「一番分かり易い日本の経済状況となり得るのか?」という命題が必然的に浮かび上がってくる。そして、経済アナリストを始めとして、「経済的視点から見た日本の国内の要素的経済力動の構造的様相」を明らかにしてきたことがないように思われる。そのよい例は、「国内の株式銘柄」に関する「株主達の質及び量的次元にある要素的分析」に見出されるはずである。真の開かれた資本主義の市場原理と日本の家族単位での「真の契約社会の原則」による「平等性でしか成立しえない個人の自己責任」による「投資理念」は、「健全に成り立っているのだろうか?」という疑問が湧いてしまう。もちろん、「基本的な市場原理が成立している」という意識を持って、「世界の市場と共に国内市場」での投資を行っている日本人が多くいるのも確かである。

 然しながら、このように考えると、「少子化」の問題に関しては、さらに深刻な問題になっていく危険性があり、「将来の日本の国家的有機的な様相が、如何なるデザインになるのか?」をシミュレーションしながら、物事全てに対してガラス張りにして、「悪性の成人病に対する対処法」と同様に、健康な国家を築いて行けるように、「無駄を全て省き、健全で安心できる状態を確保できる取り組み」が、最優先事項として必要である。つまり、日本の国家を人体モデルを基本にした考え方である、「内分泌系・免疫系・神経系及び内胚葉・中胚葉・外胚葉」として捉えながら全てを要素的有機体に譬え、「解剖学次元と細胞組織の健全なる有機的動態」を明らかにしてみることである。

 この「医学的モデル型の国家の様相」には、公官庁だけではなく民間を含めた天下りを前提としている「不必要な様々な諸機関」が、多々存在しているはずである。この現象は、場合によっては、「基本的な年金生活の困難さ」が、隠しテーマになっている可能性もあり得るかも知れない。事実、「一般の日本の年金受給対象者が、年金だけで日常生活を始めとする豊かさを保障されているか?どうか?」を考えてみると、例えば、「公務員夫婦の退職金及び年金の合算」で可能になっている年金生活は、例外としか言いようがない。

 つまり、一般の年金受給対象の日本人には、「退職後の細やかでも豊かな生活」は、全く保障されているとは思えない。このような考え方の基本にある要素は、極々一般の日本人の生活の質と量が、「一生を一つの単位とした場合に、経済的にどのような様相になっているのか?」を算出し、「様々な日本の職業・職種と収入の分布を三世代で抽出し、比較検討してみる」ことが、国民にとっては、「我が国の構造的様相が、どうなっているのか?」をより良く理解でき、さらに、「教育の平等性」に「何が、必要であるのか?」を見出せることを可能にすることができると思われる。この考えは、「日本の国益」を前提にした場合に、「より相応しい人材」が、「国家のみならず世界に役に立つ人材」として羽ばたけるからである

そこに、世界に於ける「日本人の学力の低下」に対して我々が抱く、「我々国民に、何を?示唆しているのか?」の問いへの答えが、確実に見出せるはずである。そして、「受験産業の無意味化」を促進できるはずである。当然、国及び地方自治体が、「こども達の為に必要な良性の質と量を保障できる教育に何が?必要か?」を見出しさざるを得ないが、その為の財源を「平等性」に基いて、算出することは困難とは思えない。日本の文化・歴史・叡智は、世界の中でも、ある意味特殊と云えるような美学を兼ね備えていたはずである。然しながら、今や、この優れた美学が継承されることが、「ほぼ、不可能な状況になっている」としか思えない。

 このような事態が、「少子化に拍車をかけてしまった」と考えても不思議ではない。豊かになっていたはずの日本が、「豊かさを体験できない日本人」を生み出してしまい、結果的に、「将来への希望を持てない国民意識」として、「逆説的な悪性の国民意識」を、「国家自らが、生み出させてしまった」としか考えられない。全てを、根本から見直す時期に入っているはずにも関わらず、「物事を、見直すどころか、既得権益のようなくだらないものに、しがみついて、国家の質的及び量的な未来の日本に希望を齎しうる可能性」を奪い取っているのが、「日本の現状」と考えざるを得ないとしか言いようがない。

 現代の日本の国に一番適しているデザインは、世界の現状を念頭に置き見据えた、スポーツのチームのような、「国家をけん引できる適材適所の配置を、如何に可能に出来るか?」と比喩化することが可能と思われる。当然、このデザインは、「国内外で、世界を舞台に活躍し、尊敬されているスポーツ」の選手達のような、国際化された世界の中の日本の情勢という認識が大前提になっている。つまり、かなり高度の国際化された視点からの「普遍的で客観的な認識力と見識力を身に付ける必要性が要請されている」ということになる。