Jeanへ

 

久しぶりだね。

御無沙汰だね。

そういえば、先日、Melman博士との電話での対話で、

この偉大な人物が、僕に、とんでもない謎の一言を思い出し、

やっと、「その謎が解けた!」と思い、フランス語で書いてみた。

 

Jeanだったら、「どのように聴きとったか?」は、

<論理的なシニフィアンの連鎖の次元の様相>として、

<Kyoの聴き取りスタイルの構造>と同じだと思うけど、

やはり、<言語の次元にあるシニフィアンの奏でる表現のスタイル>は違うだろうね。

 

それでは、<どんなやり取りだったか?>と、日本から25,Rue de lilleへの、

20年ぐらい前の<電話通話の内容>と、今日の僕が、

<私分(=大文字の他者という表記にしたシニフィアン)の聴いたシニフィアンの連鎖>を書いてみるよ。

 

Kyo : J’ai l’impression que votre style de l’ecriture de l’edito, ce n’est pas a l’air du style lacanien ?

Docteur Melman : Je ne peux pas dire......

Kyo : ??? 

Oui ? se serait dit en lui-meme « maintnant » ?

 

Apres 20ans passes, 

 

Kyo : Vous allez vous dire ce que c’est le style lacanien ? 

Qu’est ce qui est du style lacanien ?  

C’est tout ! 

Si ce n’est pas ca ?.. Tu drois te demander ce qui est de che vuoi lacanien ! 

Tu vois maintenant ce que c’etait a ce moment-la en ce moment meme comme toujours !

 

と、聴こえていないだけではなく、表現されていないは、

明らかに、独りでに、聴きとるしかないことばで、

命題に対しての論理的帰結>になったんだね。

 

極端にいうと、<超短時間の精神分析のセッション>になるけど、

一つの夢を巡って、数年単位での分析が必要になる>こともあるもんね。

 

こちらは、今、「筍梅雨」という雨の多い日々が続いている。

健康が一番だよね。

 

Mariaによろしく。

 

Kyo

 

 

Jeanへ、

 

先日、Φバンドのドラムとギター(=ボーカル)と僕の三人で、

細やかなお泊りコースで、彼等が準備してくれたYAMAHAのアコースティックギターで、

二本のギータ―とベースで、即興で、色んな曲をやりながら、面白いオリジナル曲ができたよ。

音楽に関するものは、全て、処分していたので、指先は痛いし、TACOMAを除けば、

ストラドとレスポールをいつも弾いていたので、かなり戸惑ったけど、

新しいギターテクニックを発見して、厚みのあるリズミカルな曲が完成したよ。

創作に関しては、興味も無くなっていたし、諦めていたけど、面白かったね。

これも、ある意味では、ラカン派から見ると、「シニフィアンの連鎖」の次元で、

J'oui sence⇒J'oui science?と云える奏でで身体に良いかな?

Signifiantで構造化されてるはずの「コトバを喋るフロイト的無意識の主体」が、

モノゴトをキチンと表現できていなかったら、やはり、Jouissanceの次元に埋没して、

「身を以て知る」ということになってしまうしかないかも知れないね?

 

では、また。

健康が、何といっても、一番だよね。

Mariaによろしく。

 

Kyoより

 

追伸:Mot de passe : Gyanchardを覚えているかい?今、

このファイルが、最大効果をもたらすかも知れないね?

 

Jeanへ

 

御無沙汰しています。

どういうわけか?時の経つのが早すぎる気がするね。

日本を含め、世界中の色んな問題が、明るい未来を目指しているのか?

疑問だらけだね。

フロイト先生が、「無意識の科学」を探求・研究し、

ラカン先生が、それを、数学の原理によって、文字通り「科学への道標」を、

我々に提示してくれたんだけど、

未だに、「この事実に、向き合う」ことができていないね。

つまり、「見たくない自分」・「受け入れられない自分」・「認めたくない事実」....等を、

「否認」による「からくり」で、あがきながら、生きているような気がする。

カントの「実践理性批判」に読み取れる「道・徳・律」が、精神分析の次元では、

「法の招来」を嘆願しながら、「去勢」の恐怖を生きていることになるよね。

本当に、「自分自身に対しての恐れ」が無いのか?どうか?やはり、疑問になってしまう。

 

二つ、良い知らせがある。

一つ目は、井上靖や村上龍や村上春樹等多数の日本の文学書をフランス語に翻訳した、

Corinne ATLANの「読むこと、書くこと、訳すこと」と題されたFukuokaのInstitut-Francaisでの講演に参加し、

その後、皆さんと食事を共にできたこと。

言語・エクリチュール・文化のことを、改めて、考えるきっかけになったね。

二つ目は、近未来に実現することだけど、フランスから、愛すべき人々が、

Fukuokaにくること。

 

天気が不安定で、過ごしにくい日々が続いているのがいやだね。

では、次の便りまで。

 

A bientot

 

 

Jeanへ

 

この前のメッセージから少し時間が経ってしまった。

Je m'excuse de ca.

新しいことと云えば、「‟恥”に関する普遍的構造」について、

ヘーゲルは当然のことながら、一応、誰にでも理解できるように、

フッサールの「間主観性」を‟恥の構造”の‟展開図”にして、

フロイト・ラカン理論で素描することある程度できたかな?

仕事の合間に、「思いつたことを、そのまま、忘れないように、記述しているだけ!」なので、

完成には、まだ至っていないけど、ある意味、この日本では、

「大きな発見」になった可能性があるかも知れない?

ベネディクト・ルースが、

彼女なりに、日本について形容した「恥の文化」の根本原理の素描と云えると思う。

 

今日は、この辺で、また次回だね。

 

マリアに宜しくね!

 

Kyo

 

Jeanへ、

 

元気かな?

Mariaも元気かな?

 

A demain.

 

Kyo

 

Jeanへ

 

今日は、日本では、政治のレベルでもない、

ある意味、芸能が、本当に文化の次元になったというイベントが、

起きた日かも知れない?

実は、沢尻エリカという人物が、変な話だけど、

所謂、不法薬物の次元で、罰せられた後に、

テネシーネシー・ウイリーアムスの歴史的に有名な「Trainway named disire」という劇(=日本語訳では、

「欲望という名の電車」)のブランチの役を演じたらしい。

アメリカ人も、我々、ラカン派のような感覚を持っているかどうか?は、

定かではないけど、この役に名付けられた次元には、女性のみが知る「ある種の神話の起源が、如何なるものか?」を、

我々に、問い聴かせているよね。

夜も更けた。

Bonne nuit.

 

Kyo

 

Jeanへ

 

ご無沙汰して、申し訳ないね。

世界を見渡しても、大変な状況だらけだけど、

アメリカのバイデンの記憶障害系の問題みたいに、

僕の日本も、完全にボロが出てきた。

君のことを、思えべ思うほど、脳外科のことや大学病院のことを思い出すよ。

今年は、こBlogを使って、メッセージを送るので、宜しくね。

Mariaに宜しく。

Kyo