日本が竹島を「日本の領土」と閣議決定したのは1905年ですが、韓国は「1905年よりずっと前から韓国が領有していた。」そして「日本が戦争のドサクサで韓国の領土を奪ったから力ずくで奪い返したのだ。」と主張しています。
その根拠を古い順に見てみましょう。
1.三国史記(1145年)
朝鮮半島最古の歴史書で、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までの様子が書かれています。1143~1145年にかけて作成されました。

上図がその原文の一部です。4行目の「十三年夏六月」にある記載、
「于山国征服、歳以土宜為貢、于山国、在溟州東海島、或名鬱陵島」
日本語に訳すと次のようになります。
「于山国は征服され、毎年貢ぎ物を献上した。于山国は溟州(現在の江原道)東海にある島国で、別名を鬱陵島という。」
この于山国の「鬱陵島」が現在の竹島である、鬱陵島は新羅が征服した島である。新羅は今の韓国である。だから竹島は韓国の島である。というのが韓国の主張です。
ところが、朝鮮半島の東側の日本海に今も「鬱陵島」という名前の韓国の島が存在します。普通に考えて「三国史記」に記載されている「鬱陵島」という島は現在の鬱陵島です。同じ名前だし。
この「鬱陵島」が竹島だとすると、今日本海にある「鬱陵島」と呼ばれている島は何だ?てことになります。
というわけで「三国史記」に竹島は出てきません。この文書は「昔から韓国が竹島を領有していた」根拠にはなりません。
三国史記はSeoul National UniversityのサイトからPDFでダウンロードできます。
http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0004.PDF
2.高麗史(1451年)
朝鮮の高麗王朝(918~1392年)のことを記した紀伝体の官史。1451年に完成しました。

上図がその地理志(巻五八)の原文の一部です。
「在縣正東海中、新羅時、称于山国、一伝武陵、一伝于陵、地方百里、智證王十二年以降、太祖十三年、其島人、使白吉、土豆献方物、穀宗十一年、王聞鬱陵地廣土肥、旧有州県、可以居民、遣溟州道監倉金柔立、往視、柔立回奏云、島中有大山、従山頂向東行至海、一万余歩、向西行一万三千余歩、向南行一万五千余歩、向北行八千余歩、有村落基址七所、有石仏鐵鐘石塔、多生紫胡蒿木石南草、然多岩石、民不可居、遂寝其議、一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見」
日本語に訳すと次のようになります。
「鬱陵島は東海中に在り、新羅時代には于山国と呼ばれていた。
この島は時に武陵、或いは于陵とも呼ばれ、智證王十二年以降から太祖十三年まで、島民は農産物を献上した。
穀宗十一年に、鬱陵の土地が肥沃であることを 聞いた王は、使節を島に派遣した。
島の中央には大きな山が在り、そこから東の海へは一万余歩、西には一万三千余歩、南へは一万五千余歩、そして北には八千余歩の大きさであった。
島には村落が七ヶ所あり、石仏・鐵鐘・石塔、そして多くの草木が生え、岩が多くある場所では人の居住は不可能であった。
一説には、于山・武陵の二島は距離がそれほど離れていない為、空気の澄み切った日には(互いを)望み見ることが出来る。 」
まず、新羅時代、鬱陵島は于山国と呼ばれていて、島民は新羅に貢ぎ物をしていたと。これは前述の「三国史記」の記載と一致します。
次に鬱陵島に関する詳しい記述が出てきます。つまり「土地が肥沃」「七つの集落があった」「草木が生えていた」と。
これは竹島とは一致しません。竹島は岩と絶壁の島なので、そもそも肥沃な土地なんて無いし、50m四方ほどの広さしかないので、七つの集落は存在できません。
つまり、この歴史書に出てくる鬱陵島は、竹島ではなく、やはり現在の鬱陵島を指しています。
最後に「一説には」と前置きして、于山国には于山と武陵の二つの島があり「天気の良い日は見えた」と書いてあります。
つまり于山島(鬱陵島)とは別に「武陵島」という島があったと。しかし、竹島は于山(鬱陵島)から約92km離れているので、天気が良くても見えません。
ここで、現在の鬱陵島をグーグルマップで見てみましょう。

鬱陵島の東側に「竹嶼(チュクド)」という小さな島があります。竹嶼は鬱陵島から約2kmなので、天気が良ければ問題なく見えます。
つまり「高麗史」に記載されている「武陵島」は、現在の竹島ではなく「竹嶼」を指しています。
というわけで「高麗史」に竹島は出てきません。この文書は「昔から韓国が竹島を領有していた」根拠にはなりません。
高麗史はSeoul National UniversityのサイトからPDFでダウンロードできます。
http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0669.PDF
3.東国輿地勝覧(1481年)
朝鮮半島最古の地図で、1481年に完成しました。前述の「高麗史」と同じ時代に作成された地図です。

鬱陵島と于山島、二つの島が書いてあります。韓国は、右の鬱陵島が現在の竹島で、左の于山島が現在の鬱陵島である、と主張しています。
しかし、大きさも位置関係も実在の鬱陵島と竹島とは違います。
この地図は「昔から韓国が竹島を領有していた」根拠にはなりません。
4.大韓地誌(1899年)
帝政時代の韓国で編纂された地理書です。1899年に完成し、韓国の学校教育でも使われていました。

大韓帝国の領域は「北緯33度15分から北緯42度15分、東経124度35分から東経130度35分まで」と記載されています。
現在の竹島をグーグルマップで見てみると、竹島の位置は「北緯37度14分、東経131度51~52分」なので、大韓帝国の領域に入っていません。

この1899年はどんな状況だったかというと。
日本が清(現在の中国)と戦争(日清戦争)して勝利し、下関条約を結んだのが1895年です。下関条約の第一条は「朝鮮は中国の属国ではない。独立を認めろ。」となっており、これをもって韓国は国家として独立を果たしました。
韓国が独立後、自国民に自国のことを教えるために製作した地図です。
その後、1910年、韓国は日本に併合されましたが、1899年の時点では韓国は独立していたので、日本の意向で領域の緯度経度を書き換えられたのではありません。
5.大韓全図(1899年)
前述の「大韓地誌」に収録されている地図「大韓全図」です。

前述の「東国輿地勝覧」よりも正確な地図になっています。「鬱陵島」や「于山」の文字は見えますが、竹島の位置(東経131度)は地図の範囲外です。
つまり1899年の時点でも韓国の地理書や地図に「竹島」の記述はありません。
そして1905年、日本は竹島を日本の領土に編入しました。
6.朝鮮常識問答(1947年)
韓国の教科書です。これは第二次世界大戦後の1947年、つまり日本併合が終わり、韓国が独立した後に編纂されたものです。

ここに韓国の領土は「東経130度56分23秒まで」と記載されています。前述の大韓地誌の記載「東経130度35分まで」に比べて若干拡大され、また秒単位の正確な表記になっています。
鬱陵島の隣の竹嶼をグーグルマップで見てみましょう。

竹嶼の東端は「東経130度56分23秒」なので、韓国の領土の東の境界と一致します。つまり「韓国の領土の東は竹嶼まで」と、韓国の教科書にハッキリと書いてあるのです。
竹島は竹嶼からさらに東に約92kmにあるので「韓国の領土には含まれていない」ということです。
というわけで、第二次世界大戦が終わった後、韓国が独立して完全に日本の影響下から抜け出した後の1947年の時点でも、韓国は竹島を韓国の領土と認識していません。
・・・・・
ところがこの後1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国の初代大統領である李承晩(イ・スンマン)が、竹島を韓国領とする「李承晩ライン」を突如として宣言し、竹島に侵攻し占領し、日本の漁民を殺害しました。
この「李承晩ライン」は歴史的には何の根拠もない、李承晩の思いつきです。この大統領は自分の国の教科書を読んでなかったのかもしれません。
ただし李承晩は当時の韓国の正式な大統領です。そして大統領に選んだのは韓国の国民です。なので、韓国の国民は全力で支持するしかない、今さら後には引けません。
それで「ずっと昔から韓国の領土だった。」と主張しているのです。そもそもそんな歴史はないのだから、古い文書や地図をいくら探し回っても根拠となる証拠が出て来るわけがない。
結論、韓国が「独島は我が領土」と主張する根拠は存在しない。そんな史実はないから。
日本が「竹島は日本の領土だ。」と主張する根拠については以前のブログをご覧下さい。
竹島、本当は誰の島なのか?
http://ameblo.jp/2kman/entry-11375322299.html
その根拠を古い順に見てみましょう。
1.三国史記(1145年)
朝鮮半島最古の歴史書で、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までの様子が書かれています。1143~1145年にかけて作成されました。

上図がその原文の一部です。4行目の「十三年夏六月」にある記載、
「于山国征服、歳以土宜為貢、于山国、在溟州東海島、或名鬱陵島」
日本語に訳すと次のようになります。
「于山国は征服され、毎年貢ぎ物を献上した。于山国は溟州(現在の江原道)東海にある島国で、別名を鬱陵島という。」
この于山国の「鬱陵島」が現在の竹島である、鬱陵島は新羅が征服した島である。新羅は今の韓国である。だから竹島は韓国の島である。というのが韓国の主張です。
ところが、朝鮮半島の東側の日本海に今も「鬱陵島」という名前の韓国の島が存在します。普通に考えて「三国史記」に記載されている「鬱陵島」という島は現在の鬱陵島です。同じ名前だし。
この「鬱陵島」が竹島だとすると、今日本海にある「鬱陵島」と呼ばれている島は何だ?てことになります。
というわけで「三国史記」に竹島は出てきません。この文書は「昔から韓国が竹島を領有していた」根拠にはなりません。
三国史記はSeoul National UniversityのサイトからPDFでダウンロードできます。
http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0004.PDF
2.高麗史(1451年)
朝鮮の高麗王朝(918~1392年)のことを記した紀伝体の官史。1451年に完成しました。

上図がその地理志(巻五八)の原文の一部です。
「在縣正東海中、新羅時、称于山国、一伝武陵、一伝于陵、地方百里、智證王十二年以降、太祖十三年、其島人、使白吉、土豆献方物、穀宗十一年、王聞鬱陵地廣土肥、旧有州県、可以居民、遣溟州道監倉金柔立、往視、柔立回奏云、島中有大山、従山頂向東行至海、一万余歩、向西行一万三千余歩、向南行一万五千余歩、向北行八千余歩、有村落基址七所、有石仏鐵鐘石塔、多生紫胡蒿木石南草、然多岩石、民不可居、遂寝其議、一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見」
日本語に訳すと次のようになります。
「鬱陵島は東海中に在り、新羅時代には于山国と呼ばれていた。
この島は時に武陵、或いは于陵とも呼ばれ、智證王十二年以降から太祖十三年まで、島民は農産物を献上した。
穀宗十一年に、鬱陵の土地が肥沃であることを 聞いた王は、使節を島に派遣した。
島の中央には大きな山が在り、そこから東の海へは一万余歩、西には一万三千余歩、南へは一万五千余歩、そして北には八千余歩の大きさであった。
島には村落が七ヶ所あり、石仏・鐵鐘・石塔、そして多くの草木が生え、岩が多くある場所では人の居住は不可能であった。
一説には、于山・武陵の二島は距離がそれほど離れていない為、空気の澄み切った日には(互いを)望み見ることが出来る。 」
まず、新羅時代、鬱陵島は于山国と呼ばれていて、島民は新羅に貢ぎ物をしていたと。これは前述の「三国史記」の記載と一致します。
次に鬱陵島に関する詳しい記述が出てきます。つまり「土地が肥沃」「七つの集落があった」「草木が生えていた」と。
これは竹島とは一致しません。竹島は岩と絶壁の島なので、そもそも肥沃な土地なんて無いし、50m四方ほどの広さしかないので、七つの集落は存在できません。
つまり、この歴史書に出てくる鬱陵島は、竹島ではなく、やはり現在の鬱陵島を指しています。
最後に「一説には」と前置きして、于山国には于山と武陵の二つの島があり「天気の良い日は見えた」と書いてあります。
つまり于山島(鬱陵島)とは別に「武陵島」という島があったと。しかし、竹島は于山(鬱陵島)から約92km離れているので、天気が良くても見えません。
ここで、現在の鬱陵島をグーグルマップで見てみましょう。

鬱陵島の東側に「竹嶼(チュクド)」という小さな島があります。竹嶼は鬱陵島から約2kmなので、天気が良ければ問題なく見えます。
つまり「高麗史」に記載されている「武陵島」は、現在の竹島ではなく「竹嶼」を指しています。
というわけで「高麗史」に竹島は出てきません。この文書は「昔から韓国が竹島を領有していた」根拠にはなりません。
高麗史はSeoul National UniversityのサイトからPDFでダウンロードできます。
http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0669.PDF
3.東国輿地勝覧(1481年)
朝鮮半島最古の地図で、1481年に完成しました。前述の「高麗史」と同じ時代に作成された地図です。

鬱陵島と于山島、二つの島が書いてあります。韓国は、右の鬱陵島が現在の竹島で、左の于山島が現在の鬱陵島である、と主張しています。
しかし、大きさも位置関係も実在の鬱陵島と竹島とは違います。
この地図は「昔から韓国が竹島を領有していた」根拠にはなりません。
4.大韓地誌(1899年)
帝政時代の韓国で編纂された地理書です。1899年に完成し、韓国の学校教育でも使われていました。

大韓帝国の領域は「北緯33度15分から北緯42度15分、東経124度35分から東経130度35分まで」と記載されています。
現在の竹島をグーグルマップで見てみると、竹島の位置は「北緯37度14分、東経131度51~52分」なので、大韓帝国の領域に入っていません。

この1899年はどんな状況だったかというと。
日本が清(現在の中国)と戦争(日清戦争)して勝利し、下関条約を結んだのが1895年です。下関条約の第一条は「朝鮮は中国の属国ではない。独立を認めろ。」となっており、これをもって韓国は国家として独立を果たしました。
韓国が独立後、自国民に自国のことを教えるために製作した地図です。
その後、1910年、韓国は日本に併合されましたが、1899年の時点では韓国は独立していたので、日本の意向で領域の緯度経度を書き換えられたのではありません。
5.大韓全図(1899年)
前述の「大韓地誌」に収録されている地図「大韓全図」です。

前述の「東国輿地勝覧」よりも正確な地図になっています。「鬱陵島」や「于山」の文字は見えますが、竹島の位置(東経131度)は地図の範囲外です。
つまり1899年の時点でも韓国の地理書や地図に「竹島」の記述はありません。
そして1905年、日本は竹島を日本の領土に編入しました。
6.朝鮮常識問答(1947年)
韓国の教科書です。これは第二次世界大戦後の1947年、つまり日本併合が終わり、韓国が独立した後に編纂されたものです。

ここに韓国の領土は「東経130度56分23秒まで」と記載されています。前述の大韓地誌の記載「東経130度35分まで」に比べて若干拡大され、また秒単位の正確な表記になっています。
鬱陵島の隣の竹嶼をグーグルマップで見てみましょう。

竹嶼の東端は「東経130度56分23秒」なので、韓国の領土の東の境界と一致します。つまり「韓国の領土の東は竹嶼まで」と、韓国の教科書にハッキリと書いてあるのです。
竹島は竹嶼からさらに東に約92kmにあるので「韓国の領土には含まれていない」ということです。
というわけで、第二次世界大戦が終わった後、韓国が独立して完全に日本の影響下から抜け出した後の1947年の時点でも、韓国は竹島を韓国の領土と認識していません。
・・・・・
ところがこの後1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国の初代大統領である李承晩(イ・スンマン)が、竹島を韓国領とする「李承晩ライン」を突如として宣言し、竹島に侵攻し占領し、日本の漁民を殺害しました。
この「李承晩ライン」は歴史的には何の根拠もない、李承晩の思いつきです。この大統領は自分の国の教科書を読んでなかったのかもしれません。
ただし李承晩は当時の韓国の正式な大統領です。そして大統領に選んだのは韓国の国民です。なので、韓国の国民は全力で支持するしかない、今さら後には引けません。
それで「ずっと昔から韓国の領土だった。」と主張しているのです。そもそもそんな歴史はないのだから、古い文書や地図をいくら探し回っても根拠となる証拠が出て来るわけがない。
結論、韓国が「独島は我が領土」と主張する根拠は存在しない。そんな史実はないから。
日本が「竹島は日本の領土だ。」と主張する根拠については以前のブログをご覧下さい。
竹島、本当は誰の島なのか?
http://ameblo.jp/2kman/entry-11375322299.html