蒸し暑い夏の夜だった。
秩序なく建てられた、高かったり低かったりする住宅の隙間を縫って、
ずかずかと走る私鉄の駅にはタクシーのロータリーもない。
一路線だけあるマメのようなバスはまだ子供すら塾から帰って来ないくらいの時刻に
操車場に戻っていく。
当然、仕事帰りに一杯ひっかけたサラリーマンが改札から吐き出される頃には、
すでにゴーストタウンのようになって塊のような空気を凝縮させているのだった。
彼は襟元の少し湿ったワイシャツのネクタイを怠惰に緩め、寝るためだけに存在する
アパートへの道を歩いた。つい先刻までの脂っこい喧騒とは打って変わった静寂。
昼間の疲れとアルコールでついつい瞼が下がってくる。
道端に明かりを灯す自動販売機の赤と白が滲んで見えた。
「おい」
突然後ろから呼び止められた。
「はい」
呼ばれれば必ず、ハイ応じてしまうサラリーマンの悲しい性……。
振り返るとそこには、老齢厚生年金も基礎年金も、マルっと貰っているくらいの頃合いの、
老人が立っていた。 見たことのない顔だった。
まして、そんな風に居丈高に呼び止められる覚えは彼にはなかった。
「何か、ご用でしょうか?」
彼はハイと応えてしまったテンションそのままに老人に尋ねてみた。
老人と思っていたが、まだ後期高齢者医療制度で年金から保険料は
特別徴収されていないくらいの年齢のようにも見えた。
「おれは神だ。率直に用件を言うと、お前の望むところの願いを3つだけかなえてやる。今日のノルマだ」
老人は、現役並み自己負担3割かと思うようなしっかりとした口ぶりで話したが、
話している内容は成年被後見人も、びっくりだ。
「…メンドクサイひとにロックオンされてしまった」
「そのへんに生活救助員か後見人さんでもいないものだろうか」
あたりを見回しながら、彼が心の中で一人ごちると老人は言った。
「お前、今めんどくせーなと思っただろ」
彼は驚いた。なんと老人は彼が今、思ったことを正確に言い当てたのだから。
「ちょっと待ってください」
彼は慌てて言った。この老人が本当の神様だったとは。
ベビーブーム絶頂期に生まれ大学受験の倍率は、その辺の有名三流大学でも一著前。
思い通りの学校へは進学できなかった。
卒業時、バブル崩壊の影響で、就職先はほとんどなかった。
そんな自分にもやっと運が向いてきた。彼はそう思った。
欲望が胸を、計算が頭を駆け巡る。
「金、女?」「土地?やっぱり銀座」
「NTTの株?憧れの不労収入、投信、国債」
「早くしろ」
老人はイライラしながら怒鳴った。
「すみません、少しだけゆっくり考えさせてください」
思わず崩れてくる表情を必死に平常に保つ努力をしながら、彼は答えた。
日本の王様にしてもらおうか、王様なら金も女も思いのままだ。いやまてよ…。
日本は民主主義、主権在民を掲げた国だ。すると王様にしてもらっても
実質的にはあまりいいことがなさそうだ。どうすればいいのか、金は魅力的だが、
将来的に急激なインフレーションが起こらないとも限らない。
どんなに高価な株だって会社が倒産してしまえば紙クズだ。
いや、証券保管振替機構による株券電子化のために紙クズすらならない。
債権だってデフォルトのリスクを伴う。結構、難しいものである。
また分不相応な財産をもつことは余計な心配ごとを抱え込むことにもつながる……。
とここは、やはり身の丈にあった願いをしなければ。
自分の体重は約63キログラムだから……。
頭を散々悩ませた挙句、絶対的な価値を持つ金融資産を彼は思いついた。
「願いは決まりました」
彼は老人に言った。
「よく聞いてくださいよ」
待ちくたびれたと言った表情の老人は頷き、彼の言葉に耳を欹てた。
「私の願いはですね…。いいますよ…」
「2025.5トロイオンスの金を、金塊を下さい」
老人は黙って聞いていた。
シンと静まった夜更けに、昼間の日差しで柔らかくなったアスファルトが
オイルの臭いを蒸散させていた。
少しの間を置き老人は口を開いた。
「ああ、そうですか」
老人はそれだけ言うと彼にくるりと背中を向け歩き出した。
金塊は現れなかった。
「話が違うじゃないですか。金塊はどうしたんですか」
彼は老人に食ってかかった。
「願いは3つといったはずだ」
老人はこれだから、最近の若い者はといった愁嘆めいた表情を浮かべた。
「ちょっと待ってやって、ゆっくり考えさせてやって、よく聞いてやっただろ」
老人はそのまま歩き続け、自動販売機の横に立て掛けてあったマルキン自転車にまたがると、
ゆらりゆらりと闇の中へ消えていった。
了