十字架に礎られるイエスは、最後の力を振りしぼって神に祈ります。

「父よ!なぜ私をお見捨てになるのです!」

そのとき、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、イエスを十字架から解き放ちます。
「神はあなたを試されただけ。あなたは十分に苦痛に耐えたわ。」


十字架から解放されたイエスはマグダラのマリアを求めて愛を交わします。
しかし彼女は神によってその命を召されてしまいます。
落胆するイエスに天使は語りかけます。
「世界に女は一人しかいないのよ。一つが死ぬともう一つが生まれる…」
天使はイエスをラザロのマリアのもとに導き、イエスは彼女との家庭を築き始めるのです。
ある日、彼はイエスの復活を説くパウロを見つけて自分がイエスだと詰め寄ります。
しかしパウロは、私のイエスはあなたよりずっと偉大だ、と冷たく言い放ち、イエスは深い衝撃を受けます。
それでもイエスは子供さえ作り、安穏で世俗的な日常に埋没してゆくのです。
時は流れ、エルサレム滅亡の日。
今まさに死なんとするイエスの枕元に、かつての弟子たちが次々に姿を現します。
そこには、イエスからの依頼で寺兵への密告をしたユダの姿もあります。
ユダはイエスを断罪します。

「なぜ十字架から逃げた?
新しい秩序となるべき人が国を滅ぼしたのだ!」
さらに、追い打ちをかけるようにユダは天使を指して言います。
「彼女は天使などではない!彼女の正体は悪魔だ!」

愕然とするイエスは神に祈ります。
「私を救世主にして下さい。
どんな苦痛にも耐えてみせます。」
その刹那。
彼の身体はゴルゴダの十字架上にありました。
神に感謝しながら微笑を浮かべるイエス。
「有難うございます。
これで私は救われました。」


      *


世俗的な欲望と聖なる使命を果たさんとする葛藤に揺れ動く、人間的なキリスト像。
悪魔がイエスに囁く、最後の誘惑。

天使の姿の悪魔は、本当に悪魔だったのでしょうか。
私は天使だったのかもしれないと思います。
砂漠で行をするイエスのもとに、様々に姿を変えて現れたかつての悪魔ではなく、贖いの生け贄たるイエスに神が遣わせた本当の天使。
その最期にユダによる看破と彼の祈りによる神への到達を予定調和として天使が視せた、イエスの世俗的な欲望の生涯という せめてもの幻想。


この映画が公開前にいかに問題視されたか、あまり敬虔なクリスチャンではない私にも想像がつきます。
でも実際のイエスは、この映画のように最後の晩餐を過ぎてなお、十字架の死以外の道はないのか、と神に祈り、問いかけたであろうと私は想像します。
人間の苦境を心から理解しようとするギリシャの哲学者カザンザキスの原作小説には、聖書と異なる記述も確かにありました。
それでもこの映画の意味は損なわれるものではないでしょう。
スコセッシはカトリックの司祭を志した時期があったそうです。
「金のために人間が殺しあってる街で、どうやってクリスチャンとして生きていけるのか?」

この映画の意味は普遍的だと私は思います。
キリスト教に疎い、聖書を知らない方でも理解できます。
一言で言えば、自らの宿命を背負う覚悟。
私はそう解釈します。
宿痾とでも言うべき重荷を全く背負ってない人は先ずいないと思います。
イエスの「私を救世主にして下さい」とは、どんな苦痛に満ちた現実でも宿痾を受け入れ、生きていこうとする意思の発露。覚悟。
ときにそれが、自殺より辛いものだとしても。
(しかし私は自殺を悪とは考えていません。カトリックの洗礼を受けない理由です。)
敢えて、言います。
イエスは人の子でした。
神の啓示を受けたイエスは自らの宿命を背負うことにより、神の子になったのです。
人は皆 同じように神の子になり得るのです。
キリスト教を信仰せずとも、その一点に於いてイエスと同質なのです。

ユングの「ヨブへの答え」
人は皆、神の子たりえるのです。
人が神を越える意味など知ったことではありません。
ただ生きていかなければいけない、どうしようもない現実があるだけ。

「世間的外面的の位置や資格や業績やは、個人の人格と神との直接の交通の前には、最早何等の顧慮するに足るほどのものをもたないのである。神が絶対的に完全なる実在であり、凡ての価値は彼においては、私達に対しての如く単に妥当するのみでなく、真に永遠に〈ある〉ものであるが故に、一切の個人的人格は彼との関係、交通においては彼の永遠なる本質の中に内包されて、等しく永遠なる意義を有するものと信ぜられなければならぬ。」
(波多野精一 著「時と永遠」より抜粋)

私は神のみことばに生きようとするものですけど、厳密にいうと私の神はキリスト教を内包している神です。
不在の神の実在のしるしは、世界に美として臨在しています。
私たちの心の中にも神の愛、恩寵の光は差します。
聖霊に見守られていると確かに感じたときを思い出します。
祈りを捧げるとき、
きっと神の声を聴くとき、
奇蹟のような理外の理を信じるそのとき、神は私たちの心の中に確かに存在しているのです。








「THE LAST TEMPTATION OF CHRIST」

☆STAFF

Directd by … MARTIN SCORSESE
Produced by … BARBARA DE FINA
Screenplay by … PAUL SCHRADER
Executive Producer … HARRY UFLAND
Based on the novel by … NIKOS KAZANTZAKIS
Director of Photography … MICHAEL BALLHAUS.A.S.C
Original Score Composed by … PETER GABRIEL
Edited by … THELMA SCHOON MAKER
Production Designer … JOHN BEARD
Costume Designer … JEAN-PIERRE DELIFER

☆CAST

Jesus … WILLEM DAFOE
Judas … HARVEY KEITEL
Mary Mother of Jesus … VERNA BLOOM
Mary Magdalena … BARBARA HERSHEY
John the Baptist … ANDRE GREGORY
Saul / Paul … HARRY DEAN STANTON
Pontins Pilate … DAVID BOWIE
Peter Apostle … VICTOR ARGO
John Apostle … MICHAEL BEEN
Lazarus … TOMAS ARANA

1988 / UIP

2hours 43min


(付記)
☆十字架上のイエスが最後に神に祈るとき、画面が90度傾き、天を仰ぎ見るアングルになるのがとても悲痛に映ります。
また、しばしば活用される真上から見下ろすようなアングルは、神の視点を思わせます。
☆恐らくは敢えて生々しい口語で話す出演者たちの中で、イエスに処刑を命ずるローマ総督ピラト(デヴィッド・ボウイ)とイエスを誘惑する少女(天使or悪魔)のクイーンズ イングリッシュが示唆的に響きます。
☆イエスとユダの共犯関係。
☆ルネッサンス時代の画家たちの作品に刺激されたという映像手法。
☆実際に紀元一世紀の末に磔にされた若いユダヤ人の遺体の解説記事をスコセッシは参考にしたそうです。
それは、膝が曲げられ片側に寄っていて、十字架の上部に小さなシートがとめつけられている(苦痛を長引かせるため受刑者の身体が落ちないよう。)という内容だったそうです。
十字架にくくりつけられたウィレム・デフォー(キリスト役)は、二分で呼吸困難になったそうです…。



(蛇足)
☆actor ウィレム・デフォーが好きです。素敵…♪
 デヴィッド・ボウイも美しいけどね。
☆音楽担当はピーター・ガブリエル♪♪♪
 この映画のための試み(「Passion」)は、次のアルバム「US」にその完成を見るように思えます。






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