Ⅰは、ハイ・イメージ論の着想と導入口だと著者は言います。
現在(単行本初版は1989年)の未知を既知として、イメージとしての意義を開くこと。
「現在が既知だと思っていたり、思ったりした瞬間から彼の認識は死にはじめる。」


普遍視線:地面と平行な目の高さの視線
世界視線:垂直に俯瞰する視線
(例えば超遠方からの衛星からの映像、臨死体験として自己を客体視する視線、また、対象物とそれを視覚像としてみている主体の視座の双方を、同時に包みこんでいるもうひとつの目)



◎以下、「地図論」と「映像の終わりから」から抜粋。

☆「地図論」
人工衛星からの写真映像と航空写真には決定的な違いがある。
ランドサット映像では建物の外部という区別が消滅する。(内部という概念が崩壊する)
さらに、人工建築物と天然自然の差異も消滅し、どちらも自然と見なされる。
ビルや建物は人工的に変動する地質の表面層と見なされる。
ランドサット映像が世界視線としてあらわれたことの意味は、私たちが自分たちの生活空間や、その中での営みをまったく無化して、人工地質にしてしまうような視線を、自分たちの手で産み出したことを意味している。
ランドサット映像の世界視線から視られた(あるいは視ることができない)人間の姿は、他の生物と同じように、地表上にもしかすると存在するかもしれない可能性を持った生物のひとつにすぎない。そして可能性としてでなければ、像(イメージ)として思い浮かべることが無意味な存在だといえる。
この無意味な存在だということの極限のところで、世界視線は人間の内部に像(イメージ)として転移される。

(イメージの交換) 解説(芹沢俊介)より
「かつて実在を信じて疑わなかった普遍視線の中に浮かび上がっていた人間の生活空間とその営みは虚に、世界視線から見られた映像が実在に転換している。」



☆「映像の終わりから」

社会像を生産手段の場で考える。
線型の順序で並んだ工程にたいして〈同時に〉平行して線型に作用し、まったく機械手段とおなじ加工ができる別の生産手段(エレクトロニクス・パルスコード)m e1を設備するとn分の一の時間で製品を作れることになる。

◇高度機械化の図表

m e1=m 11+m 12+m 13+m 14……+m 1n
m e2=m 21+m 22+m 23+m 24……+m 2n
m e3=m 31+m 32+m 33+m 34……+m 3n
   :
m em…m m1+m m2+m m3+m m4……+m mn


m e1がm個集まった集積回路を、さらに制御できる一個のシステムm Eは次のように表せる。

◇高度情報化の図表
   
   │m e1 │   │m 11 m 12 m 13 m 14……m 1n │
   │m e2 │   │m 21 m 22 m 23 m 24……m 2n │
m E= │m e3 │ = │m 31 m 32 m 33 m 34……m 3n │
   │ :  │   │                  │
   │m em │   │m m1 m m2 m m3 m m4……m mn│

m Eはl 個集まってM elをつくり、というようにどこまでも高次な集積システムをつくる可能性を持っていると見なされる。
そしてこのどこまでも高次な制御可能性をもった
   n→∽ 
集積体Σ M enが「高度情報化」社会像の生産工程の表現になっている。
    1

生産手段の「高度情報化」 を表象する「マトリックス」の意味は、次の三つの要素から成り立っている。
1、映像差異の消去
2、空間(距離)の差異の消去
3、1と2の否定としての時間の差異化
1の意味。文字やバーコード、具象的な映像の差異が読みとられ、同時に差異を同一化してパルスで転換する。相互転換の機構が含まれる。
2は、例えば作業場の一点にとどまったまま、あるいは在宅のまま、作業できるようにしたこと。
3、時間の同一性を差異化する機能という意味。映像や通信や文字などの情報をパッケージして、任意の別の必要な時間に取り出せるようにしたこと。

生産現場以外での「高度情報化」を価値概念で表象するには、三つの価値パラメーターの組みで示す。
テレビ会議システムを例にとる。

│α│ │ 1 │
│β│=│nβ│  nは自然数
│γ│ │ 0 │

同時映像と通話だから、映像の差異の消去はなかったものと見なして1、時間の差異化はまったくなかったので0。二人の会議なら彼らの距離を往復する(労働)時間の価値と交通費用、雑費を加えたものが、βの価値になる。

「高度情報化」の(労働)価値の概念はひとつの数値パラメーターで示されるかわりに、三元のベクトル数{αβγ}のような、方向性をもった数値の組みで示される。もちろん三元マトリックスの行あるいは列で示されると言ってもおなじことだ。

私たちが線型の重ね合わせから、線型のマトリックスに転換しつつあるのは、避けられない像転換を意味している。(そうしたことは社会像そのものの欠陥でも美点でもない。)そうだとすれば、そのも像転換のすがたを、間違いなくつかむことがどんなに大切かを暗示しているだけだ。

「高度情報化」の社会像の像価値は、(映像の内在的な像価値のように)一見すると究極の社会像が暗示される高度なものに見えないかもしれない。しかしそれは私たちが、社会像はマクロ像で、個々の映像はミクロ像だという先入見をもっていて、私たちを安堵させているからだ。社会像の像価値もまたひとつの世界方向と、手段の線型の総和とに分解され、わたしたちの視座はひとりでに、世界方向のパラメーターのなかに無意識を包括されてしまう。
そしてその部分だけ覚醒をさまたげられているのだ。


       *


冒頭の「映像の終わりから」はこうして結ばれます。
この最後の一文には、大切な示唆、暗喩が含まれているように私には思えます。

ニュートラルに要旨を抜粋したつもりです。
でも、紹介するにあたり、この論を選んだ意図。
覚醒をさまたげられる部分。
ネットの功罪の罪の、ある一面を私はそこに見るような気がします。


吉本隆明さんの著作を、全て読んだわけではありません。
読んだけど、わかんないよ?…じゃなくて。咀嚼できてない本もあります。
なので、彼の本を紹介するのは烏滸がましいのを承知で書きました。
それは、示唆に富んだ(と私は思う)一文を紹介したかったのと、
次の前フリ…じゃなくて、踏まえた上で書こうと思うこと(想像力について)があるので。



(おまけ)
「ハイ・イメージ論」は図表や数式の説明が沢山あります。
Ⅱの「幾何論」と「自然論」ではライプニッツ(やデカルト、スピノザ)に触れていて、「単子論」の理解にとても役立ちました♪

◎「自然論」より抜粋

偶然性の関係の総体は必然性であるばかりでなく、偶然性はライプニッツのように神の選択なしにも、変換常数さえきまればいつでも必然性に変換する。
自然(フイジス)はそうできているのだ。



今は無き、福武文庫で。
Ⅲはチョコレートで表紙汚しちった…


福武文庫は、内田百間のイメージが強いです。私は。