形而上学ということを嫌う、一群の知識人が存在する。確かに、形而上学は、いつ果てるとも知れない堂々巡りのような言葉遊びのようなことを繰り返している。言葉による真理、真実を探り当てられる、それが哲学だと信じられなくなった人々は、こぞって形而上学批判に走っている。僕はどうか。生きている間に真理へと到達したいという山っ気とおさらばしたとき、僕は、及ばずながら、この長い旅路に参戦することにした。役に立たなかったとしてもいいじゃないか。いつか誰かの役に立つかも知れない。それでもいいじゃないか。いや、言論の山に埋もれてしまったとしてもいいじゃないか。それが僕の「吉本隆明研究」の総括である。
さてさて、総括である。むかし、 がさつで性急な革命主義者がこの言葉を捻じ曲げたために、我が新左翼のかけがえのない遺産が失われて、50年ほどたった。この言葉の意味を掘り起こし、概念の彫琢を再生しなければならないと思う。
僕の前にあるのは、ハイデガー形而上学入門、そして吉本隆明・心的現象論・本論。生涯の最後の本気の読書としてこの2冊を「選んだ」のではない。残ったのだ。
まずハイデガーに倣って、国語的な検討から始めよう。
総括とは、実践に伴う知的過程であり、いわゆる、プラン・ドウ―・シーのシーに当たる行為である。実践にはプランが先立つのであるが、人知は必ずしもすべてを認知、見通せるものではなく、必ず、他者の思惑に触れる。したがって予期せぬ出来事も起こり、事態に固有のプロセスであらぬ方向へも動くものである。これは実践を経た後にしか得られぬ知見である。でここにシーすなわち総括が登場する。
初めのプラン段階で知りえなかったことを明らかにし、プラン段階で至らぬことがあったときは反省し、自らの知的レベルを向上させる。また実践における、ありきたりな行動を反省し、なにかの一つ覚えのように、中央権力闘争だの、他党派解体のための介入闘争とか、を組み替え、斬新な行動パターンを編み出すとかしなければ、いつも権力者が強く、勝ってしまうのだった。
あのガサツな革命主義者たちは、自分たちのプランの無謬性にこだわって、反省をしなかったから、実践の中に間違いや失敗を見つけ、これを糾弾した。できもしない夢想を下部に押し付けたツケを自分たちが被るべきだったのだ。…以下次回・乞うご期待!!