ゲド戦記
今日久しぶりにゲド戦記を見た。
この宮崎吾朗監督の作品は、公開されたとき、彼の父である宮崎駿監督の作品と比べられ、酷評されていた。
わたしも、初めて見たときはその良さがわからなかった。
正直あまり理解できなかったのである。
だが、今回数年たってからもう一度見てみると、この作品がよく理解できた。
ハイタカがアレンにこのように言う場面がある。
「死を拒否するということは、生を拒否することだ」と。
死を受け入れて、初めてそこに生がある。
だが、この映画の中での黒幕、クモはそれを受け入れることができなかった。
死を拒否し、その結果、生を拒否してしまったのである。
この作品はおそらく、年を重ね、死や生を深く見つめないとわからないようにできているのだろう。
最初この映画を見たとき、なんて暗く、活気のない映画なんだろう、とも思った。
でも、それは当たり前だった。
”死”や”闇”をテーマにした作品が、明るく爽やかなわけがない。
その代わり、アレンやテルーが”光”となる場面が特に際立っていると思う。
そして、吾朗監督独特の、色鉛筆で繊細に描いたような優しい色使いがとても美しいと思った。
周りの意見に感化され、あたり一辺倒にこの作品を評価してしまっていたことを、吾朗監督に対し大変申し訳なく思う。
これからも、どんどん良い作品を作っていってほしい。
ゲド戦記
荘子・内篇を読んで思うこと2
前回「荘子・内篇を読んで思うこと 」で、
自分が心安らかに生きるためには、人の役に立たないように生きることが大切だと書いた。
しかし、これは口でいうほど簡単なことではない、とわたしは感じる。
なぜなら、これまでずっと人の役に立とうとして、生きてきたからだ。
人の役に立つと、人から感謝され、愛される。
人の役に立つ=愛される。
ということは、人の役に立たない=人から愛されない、という図式が私の中で成り立つことになる。
これを自ら進んで実行するのは、ひどく勇気がいることだ。
人から愛されなくても平気だと、心底、嘘偽りなく、強がりでもなく思える人はいったいどれほどこの世の中にいるだろうか。
今の社会を見る限りでは、あまり多くないだろうと思う。
もちろん、わたしもできない組の一人だ。
”神木”はこうも言っている。*前回と同じ本から抜粋
「じゃから本当の自分に戻りたかったら
すべての努力は捨て去るしかあるまいて。
今まで自分が取り繕ってきた自分をさらけ出す覚悟が必要なんじゃ。
偽りの自分を捨て去ることは、死にも匹敵する勇気を必要とするんじゃ。
なぜなら実際心が死ぬんじゃからな。」*抜粋、以上
わたしにとって、努力を捨て去ることできるのは、いつのことだろうか。
そう遠くない将来それが実現することを願いたい。
荘子・内篇を読んで思うこと
今一番気に入っている本が、”荘子・内篇”。
自分がなぜ悩み苦しむのかが、これを読んでいると良くわかる。
そしてどうすれば、その苦しみを取り除けるのかも。
わたしはこの本を読んで、今まで”良い”と信じてきたことは、実は間違っていたのだということを学んだ。
もちろん”間違っていた”というのは、わたしの目的に合わせると、それは正しくないということである。
わたしの目的というのは、いつも心穏やかで、平安でいること。
どうすればそれを達成できるのか、ずっとわからなかった。
でもこの本を読んで、結局原因は自分なのだということがわかった。
自分の欲とか、執着とか、インナーチャイルドとかが、わたしの心をかき乱しているのだ。
荘子・内篇の中の、人間世篇、第四、第四章で”神木”はこのように言っている。
*前述の本より抜粋
「自己の他人に対する有用性を気にし続けている限り、
あんたはいつまでも他人に操られ、自分自身を見失って、
他人のために生き続けなければならないんじゃ。
誰かにとって役立つ何かをもっているとき、
そいつは必ずその何かを持っていることにより、
誰かに利用されるか、自ずからその能力を他人のために行使しようとすることで
必ずやその生は苦しいものとなるわけじゃ。
他人にとってなんらかの役立つ存在となることによって
自己を存続させているだけなんじゃよ。
そしてそれがあんたの生きる道になっているんじゃ。
評価する他人がいなかったら、あんたなんかいないも同然なんじゃよ。
努力するということ自体、
自分以外のものになろうとするあがき以外の何物でもないんじゃよ。
自分が役立つ身だと思っている限り、
その心を存続させ続けようともがき
自己の能力を維持もしくは拡大するためにあくせくし、
どこまでいっても心を落ち着かせることなどできないんじゃ。
わしがひたすら役立たずであることを願ってきたというのは、
役に立つ身であろうとする心を捨て続けてきたということなんじゃ。
それがゆえに、今では完全なる無能無用の極みに至り、
それがために、自身においては安心立命という大用の極みに至ったんじゃ。
安心立命という大用の極みに至って、
初めてわしには他人のために生きるということが起こった。」
*抜粋、以上。人の役に立つことが良いことだと、わたしはずっと信じてきた。
そのように、親や、学校や、社会から教えられてきたからだ。
確かにそれは正しいのだろう。”自分以外の人にとって”良いという点では。
だが、自分にとってはどうなのか?
自分がもし心安らかに生きて生きたいと思ったら、それは間違っていることになる。
もし本当に自分をいたわり、「安心立命」を叶えたいのであれば、人の役に立たないように生きなければならないのだ。
まったく、目から鱗である。