人材の確保にも怠りなかった。
白楊社でエンジンなどの開発に携わっていた池永罷、
同じく総務関係の大野修司が加わった。

デトロイト構想に関連してアツタ号のエンジン開発をした、かつて佐吉が手を引いたが、その後ライバル会社として活動していた「豊田織機」から菅隆俊、
販売ではゼネラルモータースから神谷正太郎などがスカウトされた。

自動車の開発に関しては、自分たちの技術で進めることが喜一郎の基本路線だった。
苦労して技術を身につけることで力を付けることが大切で、
海外から技術を導入する意志はなかった。