凄いひらめきがあった❗️
内容は言えないが、
これが実現されれば、末恐ろしい奇跡としか言いようがない。
ヒントは、
今から22年前の野澤重雄さんとの出会いだ!
野澤重雄さんはハイポニカ農法を発明した方だが、
見知らぬぼくからの電話なのに、心よく会ってくれた。
大阪府高槻市に野澤さんの会社(協和株式会社)があり、
1993年4月23日に、その社長室に通された。
当時、野澤さんは80歳だった!
品のいいスーツをまとい、眼鏡をかけられた優しい笑顔はとても会社の社長には見えなかった。
当時のぼくは52歳。
父親が子どもに語りかける口調だった。
3時間近くぼくは質問もせず、メモもとることなく、
ただ野澤さんからの言葉に聞き入った。
話の内容はほとんど覚えていないが、
「皆さんも、うちの社員も、トマトに関心を向けているが、」
「本当にわしが言いたいのは生命の神秘のことなんです」
ご自身を理解してくれる人が周りにいないことを苦にしているような様子だった。
野澤さんは、話の終わり頃に、
「酒井さん!」
とぼくの名前を言ってくれた。
「これから、言うことが一番大事ですよ」
ぼくは一瞬『えっ?』とたじろいだ。
『今までの3時間近くの話はなんだったのか?』と思ったが、
野澤さんの次の言葉をじっと待った。
「世の中には不思議な現象はいろいろある」
「また、いろんな人がそんな不思議な現象のことをわしに言ってくれるが、」
「わしは、そんなものは『あるはずはない』と信用していなかった」
「あるとき、わしの信用する方が同じ不思議な現象のことを体験してびっくりされたと話されたとき、」
「わしは、あの方が言われるんならそういう現象が起きるのかも知れない、と思った」
「そうしたら、酒井さん、同じような現象が自分にも起こったんですよ」
話を終えて、
野澤さんお付きの車で最寄りの駅まで送ってくれた。
「先生、いつか近いうちにぼくのセミナーで講演していただけますか?」
後ろ座席の隣の野澤さんにぼくは初めて質問をした。
「そうですね」
野澤さんは返事をしてくれた。
駅に着き、車を降りるとき、
「ありがとうございました」と握手を求めた。
「ハイ」
握手をしたときの、野澤さんの手の感触はなぜか今でも忘れない。
それから8年後、野澤さんは亡くなられた(享年88歳)。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
22年前の貴重な思い出が蘇った!
『マザーテレサ効果』のこと、デヴィッド・ホーキンズの『意識のレベル』のこと、『自分をハグする』こと、ユングの『類心的無意識』のこと、『無意識は自由意志に先行する』ことなどなど。
それから、愛するフォーエバーのこと、
ぼくを支えてくれる愛する仲間たちのこと、
ぼくの夢のこと、
などなどに、22年前の野澤さんとの出会いも関連づけられて、
小宇宙・脳の中で、巨大な星座が誕生したようなひらめきの瞬間だった!
♢野澤重雄さん
大正2年8月10日生まれ。昭和14年台湾製糖に入社。24年独立して協和プラスチック工業所(現協和)を設立し,社長。
38年以来,農産物の収穫量を増大させる研究にとりくみ,60年に日光と水と無機肥料だけで農作物をそだてる水気耕栽培ハイポニカ法を開発。同年1万個以上の実をつけるトマトをつくば科学万博に出品した。61年吉川英治文化賞。平成13年12月28日死去。88歳。東京出身。東京帝大卒。
── デジタル版 日本人名大辞典より