未だにはっきりとしない邪馬台国の所在地。
九州、大和(奈良県)のどちらにあったかで日本の歴史は大きくかわるともいわれています。
なぜこんなことになっているのか?
それは邪馬台国について言及したという中国の史書「魏志」倭人伝に責任があるのです。
大陸から邪馬台国に至る工程が非常にあいまいに記されているのです。
「日本書紀」が卑弥呼を神功皇后に比定して以来、邪馬台国=大和朝廷と考えられて、所在も大和(奈良県)と信じられてきました。
でも、この歴史に異議を唱えたのが江戸時代の新井白石と本居宣長でした。
彼らは、邪馬台国=九州説を唱えていました。
九州説
いわれている方角はぴったり合うけれども、距離が短すぎるというもの。
だけど、榎一雄氏は、倭人伝の微妙な記述相違に着眼し、大陸から伊都国までの工程は直線的に以後各国への距離はいとこくから放射線状にとらえるべきだと解釈すると見事に邪馬台国を九州内におさめることに成功したのです。
大和説
同地域に魏の時代の銅鏡が多く発見されていること、言語学的に大和と邪馬台国が同系列の音韻であること、倭人伝に記述された行程が大和までの距離と一致すること。
ただ、方角が合わないのです。
大和か九州かでにほんの弥生時代は大きく変わってしまいます。
大和であれば、3世紀にはすでに九州から畿内にかけて広域連合王国が存在していたことになり、
九州であれば、まだ強大な統一王朝は成立していなかったことになります。
