1948年3月に
浦カトリック教会等の
協力により
永井隆の療養の
ための庵が完成します
永井はこの庵に
聖書の言葉
「己の如く人を愛せよ」から
「如己堂」と名付けます
この言葉は永井が生涯の
信念として
貫き通した言葉でもあります
(↓如己堂)
同年8月永井は大学を休職して
療養に専念する事になります
永井はニュース映画の取材に対して
「ろうそくがもう切れかけてるような
もんですけれどね
最後までやっぱり光になって
ばーっと光ることができると思います」
と答えています
更に同年10月18日に
来日中だったヘレン・ケラーが
見舞いに訪れます
このお見舞いは予告なしの
不意な訪問でした
また1949年には
昭和天皇の慰問を受ける事になります
長崎医学大学の2階廊下で
ベッドに横臥した状態で
昭和天皇の言葉を受けた永井は
「こんなに有り難いことはない」と
記しました
今日の永井の記録を読むと
昭和天皇からの銀杯の授与に関する
政府からの裁可に対して
「こんな宣伝屋みたいな真似は嫌だ
慰問の時にも
二人の子どもと引き合わせたりして
あれは宣伝が過ぎるだろう」と
記されていたのが確認できました

その後ローマ教皇の特使の
見舞いを受ける際は
如己堂まで来られるのを
辞退して自ら公会堂まで出向きました
1949年9月長崎市から
表彰を受けて
同年12月3日長崎市から
名誉市民の称号を贈られます
1951年2月危険な状態となり
その年4月の随筆「乙女峠」の脱稿が
絶筆となります
同年5月1日長崎大学附属病院に
緊急入院します
午後9時50分十字架を手にし
息を引き取りました、43歳でした
永井隆は緑夫人と共に
長崎外国人墓地に
「長崎市名誉市民永井隆之墓」として
眠っています


