森山家に下宿して
緑さんと運命の出会いをした永井てす
1932年5月
永井は大学の代表てして
卒業式で答辞を読む事になってましたが
卒業式の5日前に
雨に濡れて帰りそのま寝ました
永井は急性中耳炎にかかり
命の危うい重症になりました
この時カトリック信者の老婆が
永井の世話をしていました

永井は高熱のうわ言で
「天の後母堂マリア
われの為になりました祈りたまえ」といい
老婆は「この人は
きっとカトリック信者になる」と
確信しました、と後にのべています
2ヶ月後回復した永井ですが
後遺症として右耳が不自由になります
そのため当初志望していた
内科を諦めて
レントゲン科に入り
放射線医学を専攻する事になります

1933年2月1日
幹部候補生として
広島歩兵連隊に短期入隊して
軍医として満州事変に従事します
この際永井は緑さんから
キリスト教の教えを優しく説いた本である
「公教要理」を送られて
カトリックの教えに理解を深めたとされます
1934年2月1日、出征より帰還します
大学の研究室助手に戻ります
また同時期、浦上天主堂の
神父の元を訪れました
6月洗礼を受けます
洗礼名はパウロとします
8月森山緑さんと結婚しました
(↓永井隆の自叙伝映画
この子を残してのワンシーン)
そして間もなく妻・緑さんの仲介で
カトリックの信徒組織
聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会に入り
無料診断や奉仕活動に勤しみました
この時の経験が
後の永井の活動に結びついていきます
1935年2月
急性咽頭炎にタンパク刺激療法を
試そうとして
自らに雑菌を注射して
アナフィラキシーショックを起こしました
一時期危篤状態になります
この時カトリックでの
臨終にある者に行われる儀式
「終油の秘碩」を受けましたが
懸命の治療で一命を取り留めます
これ依頼永井は喘息が持病になります
from Itsuki
