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松坂大輔

松坂大輔

Daisuke Matsuzaka

ニューヨーク・メッツ #16

メッツ時代(2014年3月7日)

基本情報

国籍 日本

出身地 東京都江東区

生年月日 1980年9月13日(33歳)

身長 体重 6' 0" =約182.9 cm 205 lb =約93 kg

選手情報

投球・打席 右投右打

ポジション 投手

プロ入り 1998年 ドラフト1位

初出場 NPB / 1999年4月7日 MLB / 2007年4月5日

年俸 $1,500,000(2014年)

経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

横浜高等学校 西武ライオンズ (1999 - 2006) ボストン・レッドソックス (2007 - 2012) ニューヨーク・メッツ (2013 - )

国際大会

代表チーム 日本

五輪 2000年、2004年

WBC 2006年、2009年

この表について

オリンピック

男子 野球

銅 2004 野球

松坂大輔(まつざかだいすけ、1980年9月13日- )は、東京都出身 [1] のプロ野球選 手(投手)。MLB・ニューヨーク・メッツ所属。

青森県青森市生まれ [2] 、東京都江東区育ち。父は北海道稚内市出身で、母は青森 県外ヶ浜町出身。弟・松坂恭平は愛媛マンダリンパイレーツに所属していた野球選 手。妻は元日本テレビアナウンサーの柴田倫世。夫婦の間には2005年12月に誕生し た長女と、2008年3月に誕生した長男、2010年3月に誕生した次女がいる。

「大輔」という名前は、1980年に大旋風を巻き起こした甲子園のアイドル、早稲田 実業の荒木大輔のように甲子園で活躍できるようにという家族の願いからつけられた もの。

愛称は「マツポン」「マツ」「ダイスケ」、アメリカメディアでは「Dice-K」「D-Mat」という愛称が使われている。ボストンでは「Dice-K」が好まれる。本人は「D-Mat」をサインに使うこともある。渡米後の代理人はスコット・ボラス。

「目標が、その日その日を支配する」を座右の銘にしているが、これは横浜高校創立 者黒土四郎が愛した詩 [3] の一節である。

プロ入り前

5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道に打ち込む。2006 年の少年野球教室で、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問には 「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えている。小学3年生で江東 区の東陽フェニックスに入部し野球を始める。中学時代は江戸川区の江戸川南リーグ (リトルリーグ)に所属する(創価高校に進学する小谷野栄一が同い年のチームメー トだった)。リトルリーグ時代にNHK教育テレビジョンの『天才てれびくん』に出 演したことがある [4] 。

横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが [5] 、2年生 時の夏の甲子園県予選対横浜商業高校戦において自身の暴投によるサヨナラ負けを喫 して以降奮起して猛練習、MAX152km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダー、カー ブ、チェンジアップを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」と注目を浴びた。 またバッテリーを組んでいた捕手は、入学時は上地雄輔、上地の引退後は小山良 男だった(本当は帝京高校への進学が内定していたが、シニア日本代表で知り合った 小山の誘いで横浜へ方向転換)。

1998年の第70回選抜高等学校野球大会では完成度の高い投球と小山、後藤武敏、小 池正晃らチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。最後の夏となった第80回全 国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡(後に日本テレビアナウンサー) や古畑和彦や大西宏明や平石洋介や2年生田中一徳を擁する(春の準決勝で破っ た)PL学園高校を相手に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日 の準決勝、寺本四郎擁する明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。

決勝の京都成章戦では嶋清一以来59年ぶり史上2人目となる決勝戦のノーヒットノー ランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。この決勝戦は後に所属す るボストン・レッドソックスのスカウトが観戦していた [6][7] 。また、新チーム結成 後、1997年秋季県大会ブロック予選(数ヶ月後の沖縄水産高校新垣渚と初めて投げ 合った明治神宮野球大会決勝含め)から京都成章との再戦の翌年かながわ・ゆめ国 体決勝まで、公式戦44連勝を記録した。第3回AAAアジア野球選手権大会でも背番 号1を背負い日本のエースとして指揮官たる中村順司前PL監督の期待に応え活躍し自 身の18歳の誕生日に決勝で(準決勝でチャスン・ペク擁する野球韓国代表を破っ た)張誌家擁する野球中華民国代表を破り優勝投手になった。

1998年度新人選手選択会議では、指名順位1位で日本ハム・ファイターズ及び横浜ベ イスターズ含む3球団が競合の末、西武ライオンズが交渉権を獲得(ハズレ1位とし て指名された横浜は古木克明、日本ハムは實松一成、いずれも同じ高校3年生)。ド ラフト直後の会見では「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていた が、西武へ入団した。ちなみに西武同期入団で同い年の選手は第3回AAAアジア選手 権大会日本代表でもチームメイトの赤田将吾のみ。

なお高校3年間と同じクラスだった生徒にミドル級全日本高校ボクシング王者河井 了。河井は同窓の大橋秀行がオーナー、松本好二がチーフトレーナーたる大橋スポー ツジムから1999年8月、高校の6年先輩保住直孝をメインとするテレビ朝日「エキサ イトボクシング」でデビュー。松坂がVTRで激励しKO勝利。同時期に松坂は辰吉丈一 郎とサイン色紙交換、6年後に西武の高知キャンプで同い年の長谷川穂積と親友とな る。

西武時代

1999年 4月7日、初先発となった東京ドームでの日本ハム戦では155km/hの速球を披露、8 回2失点の好投で初勝利を記録し、まさに鮮烈なデビューを飾った。その試合での (前年パリーグ史上最多の年間四球を記録し選球眼の良さで知られた)片岡篤史の 豪快な空振りはプロでも変わらぬ“怪物”ぶりを示す映像資料として放送される。同 じ試合で、マイカ・フランクリンへの投球が胸元の際どいコースに行き、フランク リンが怒りをあらわに詰め寄ったが、それに動じた様子を見せないなど、強心臓ぶ りも見せた。4月21日の千葉ロッテマリーンズ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で 惜敗。この試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日のロッテ戦で 再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録しリベンジを果たした。このことか ら、松坂の「リベンジ」は、プロ同期で同じく鮮烈なデビューを果たした上原浩 治(読売ジャイアンツ)の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞 に選ばれている [8] 。5月16日のオリックス・ブルーウェーブ戦ではイチローとの初 対決が話題となり、3打席連続三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた。試合後のヒー ローインタビューでは「プロでやれる自信から確信に変わりました」と語っ た [9] 。7月24日に行われたオールスターゲーム第1戦に先発して3イニングを投げ、 高卒新人としては史上最多となる5奪三振を記録。3回表に味方の失策によって2点 を失い、自責点0ながら敗戦投手となったものの、この試合の優秀選手賞に輝い た。オールスター新人賞も受賞した。最終的に16勝を挙げて最多勝。また、規定 投球回数に到達した投手の中では最高の勝率を記録した。高卒新人としては史上初 となるベストナインとゴールデングラブ賞を受賞し、高卒新人の投手としては堀内 恒夫以来、33年ぶりとなる新人王に輝いた。 また、シドニーオリンピックにおける野球競技のアジア最終予選(第20回アジア 野球選手権大会)に参加し、9月15日のチャイニーズタイペイ戦に先発。古田敦 也(ヤクルトスワローズ)とバッテリーを組み、その試合でサヨナラ安打を記録し た高校の5年先輩の平馬淳(東芝硬式野球部)からも叱咤激励され続け1失点完投 勝利を挙げて日本の五輪出場に大きく貢献した。 2000年 津野浩以来、15年ぶりに10代での開幕投手を務めた。レギュラーシーズンでは小 野晋吾(ロッテ)との最多勝争いを制して14勝を挙げ2年連続の最多勝に輝いた が、9月13日、当時交際中の柴田倫世の自宅マンション前にて、球団名義の車で駐 車違反を犯す。この年の8月にも時速50kmオーバーのスピード違反で一発で免 許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武広報課長の黒岩彰が出 頭。松坂と柴田の交際をスクープしたこの写真週刊誌の記事によって、身代わり出 頭が明らかになり、松坂が道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、黒岩が犯人 隠避の疑いで東京地検に書類送検され、略式起訴により罰金19万5000円の有罪判 決を受ける。当時の球団社長の小野賢二および黒岩は責任を取って辞表を提出する 事態になり、松坂は当時埼玉県警察から交通安全キャンペーンのイメージキャラク ターに起用されていたこともあり、この件は世間から激しい批判を浴びた。球団側 は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は一か月足らずで解除され た [10] 。後にこの事件について開かれた記者会見では、松坂は「駐車違反をしたこ とは申し訳ない。黒岩課長の身代わり出頭は後で知った」と話し、黒岩は「レッ カー移動された乗用車は球団のもので、自分が管理しており、出頭は自分の判断 だった」と話した [11] 。 8月にはプロアマ混成のシドニーオリンピック野球日本代表に選ばれ、9月17日の アメリカ戦に先発。10回2失点の好投を披露するも、チームは延長13回サヨナラ負 け。中5日で先発した9月23日の韓国戦では、初回から4点を失うものの、その後は 立ち直り、計161球を投じて9回5失点にまとめるも、またしてもチームは延長の末 に敗れた。中3日で再び韓国と対戦した9月27日の3位決定戦では、具臺晟と投げ合 い、0-0の投手戦が続いたが、8回裏に李承燁に痛恨のタイムリー二塁打を打たれ るなどし、3失点完投負け。好投も報われず、日本は五輪野球で初めてメダルを逃 す結果となった。 2001年 15勝を挙げ、高卒史上初となる新人年からの3年連続最多勝を獲得。沢村賞を受賞 したが、15敗と負け数も多かったため、選考委員からは反対意見も出た。結局、 両リーグで唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数など が評価されての選出となった。藤田元司委員長(当時)は、「松坂の150キロを越 える豪速球は沢村さんをほうふつさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選ん だ」とコメントしている。 2002年 開幕6連勝という順調なスタートを切ったが、5月13日の大阪近鉄バファローズ戦 で右ひじを痛め、何度か復帰するものの、本来の投球は戻らずに長期離脱した。 2003年 前年の怪我から奮起し、自己最多タイの16勝を挙げ、自身初めて最優秀防御率の タイトルも獲得した。アテネオリンピックの野球アジア予選では、11月6日のチャ イニーズタイペイ戦に先発し、7回無失点の好投で勝利。五輪出場の条件である2 位以内をほぼ決定づけ、大会の最優秀投手にも選ばれた。 2004年 ロッテとの開幕戦で初回先頭打者波留敏夫に初球を叩かれヒットを浴び出塁を許し 4番(日本プロ野球初打席)李承燁にタイムリーを浴び早々と失点、結果的に敗戦 投手に。7月10日のオールスターゲーム第1戦で2番手として登板し、2イニングを 無安打無失点で4奪三振という好投を披露し、自己最速タイとなる156km/hも記録 した。本塁打を2本以上打った選手がいなかったこともあり、松坂がこの試合 のMVPに輝いた。アテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、8月17日(現地時 間)のキューバ戦に先発。4回にユリエスキー・グリエルの打球を右腕に受けるア クシデントに見舞われるも、8回まで無失点に抑える力投を披露し、完封も期待さ れた。結局、9回に3点を失ったものの、石井弘寿(ヤクルト)のリリーフで逃げ 切り、松坂は五輪での初勝利を手にした。中5日で先発した8月24日の準決勝・ オーストラリア戦では、8回途中まで1失点の好投も報われず、0-1で惜敗して金メ ダルの夢はついえた。チームは翌日、カナダとの3位決定戦に勝利したため、松坂 は銅メダリストとなった。 レギュラーシーズンは2位に終わったが、この年から導入されたプレーオフの第1 ステージで3位の日本ハムと対戦。第1戦では、8回途中7失点と打ち込まれたもの の、打線の援護で勝利投手となった。福岡ダイエーホークスと争った第2ステージ では第2戦に先発し、完封ペースだったが、打線の大量援護もあり、6回無失点で 余力を残して降板。これが功を奏し、最終の第5戦に中3日で先発が可能となっ て、6回1失点の力投を見せた。勝利投手にはなれなかったものの、チームは延長 10回の末に4-3で勝利し、リーグ優勝を果たした(この時代はプレーオフ第2ス テージ勝利チームがリーグ優勝となっていた)。中日ドラゴンズとの日本シリー ズでは、まず第2戦に先発。立浪和義に同点3ラン本塁打を打たれるなどし、6回1/3を8失点で敗戦投手。2勝3敗と王手をかけられた第6戦では、苦しみながらも8回2 失点でしのぎ、勝利投手となって逆王手をかけた。翌日の第7戦には中継ぎで3番 手として登板し、1イニングを無失点に抑えて日本一に貢献。この直後に柴田倫 世との結婚を発表。11月11日の日米野球では第6戦に先発し、1失点完投勝利。ア メリカ選抜チーム相手の完投勝利は、荒巻淳(毎日)以来、51年ぶり史上2人目の 記録となった。 2005年 5月18日のセ・パ交流戦・阪神タイガース戦でプロ野球選手として阪神甲子園球 場で初登板。高校時代には同球場で15連勝、被本塁打0という記録を持っていた が、桧山進次郎に先制2ランを浴び、試合も2-3で惜敗(勝利投手は同学年で同じ 背番号18の相手先発杉山直久、JFK (阪神タイガース)が好リリーフ)。甲子園での 被本塁打0という記録は途絶え、連勝記録も15で止まった。この年は防御率リーグ 3位と優れていたにもかかわらず、14勝13敗と負け数もかなり多かった。打線の援 護が少なく、野手の失策も多かったため、6月27日の日本ハム戦後には「球際に弱 い選手が多い。僕も含めてですが、一つ一つのプレーが軽すぎる。若い選手が多い んだから、もっとガムシャラにやってほしい」と野手批判とも受け取られかねない 発言をしたが [12] 、後日には野手ミーティングで詫びを入れたという。評論家から は「打線の援護がないのは、投球のリズムが悪いからだ」と指摘され、改善を目指 した。オフにはスコット・ボラスを代理人としポスティングシステムでのメジャー 挑戦を訴えたが [13] 、球団は制度の行使を否認した [14][15] 。12月には第1子が誕生し た。

WBC日本代表での松坂

2006年 第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場。3月4 日のチャイニーズタイペイ戦では4回1失点、3月14日のメキシコ戦では5回無失 点、そして3月20日のキューバとの決勝戦では、試合前に首を痛めながらも気合の 投球で4回1失点に抑え、先発したすべての試合で勝利投手になった(球数制限が あったため、先発勝利の条件が5イニング以上という規定がなかった)。結果的 に、大会最多となる3勝、防御率1.38という成績が高く評価され、大会の最優秀選 手(MVP)に選ばれた。MVPのトロフィーを受け取った直後のインタビューで は、「MVPとったんですけど、これ(=トロフィーの円盤状の飾り)もうとれ ちゃったんですね。この辺がアメリカっぽいですけど」と苦笑いしつつ、「後で自 分でアロンアルフアでくっつけて直しますけど」とコメントし、その後実際に販売 元の東亞合成から松坂へアロンアルフアが大量に送られた [16] 。優勝を祝うシャン パンファイトにおいては、甲子園で投げ合った同い年の日本テレビアナウンサー の上重聡に「今日のピッチング気合入ってましたね」と問われ、「もうそりゃ、今 日最後だから。今年最後だから」と大会後のレギュラーシーズンのことを忘れたか のように話し、「今年最後ではありません」と言われると、「それくらい気持ちを 入れていたってことです。帰ってもしっかりやります」と語り、実際にこの年のオ フに行われたWBC祝勝コンベンションでは「WBCが終わり、そのままシーズンオ フになれば良かったとさえ思った」と語った。 レギュラーシーズンでは6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦で1失点完投勝利を収め、 高校時代に大活躍した甲子園でのプロ初勝利を記録し、自ら本塁打も打った(バッ ティングで後述)。また、6月16日のセ・パ交流戦・横浜戦で、江川卓(所要193 試合)を抜きドラフト制度導入後最速(191試合)の100勝を達成する(その後、 同年8月25日に上原浩治が同じ191試合での100勝を阪神戦にて達成し、松坂の記 録は最速タイとなった)。10月7日、ソフトバンクとのプレーオフ第1ステージ初 戦に先発。6安打を浴び4死球を与えたが、斉藤和巳との熾烈な投げ合いを制し1-0 で完封勝利を挙げる。チームはその後2連敗し第1ステージで敗退した。 オフにはポスティングシステムの行使が容認される [17][18] 。ニューヨーク・メッ ツやニューヨーク・ヤンキース、テキサス・レンジャーズも入札に参加したことが 報じられたが [19] 、11月15日にボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セ ント(当時のレートで約60億1000万円)で独占交渉権を獲得したことが発表され る [20][21][22][23][24] 。その後、代理人のスコット・ボラスとレッドソックス側の契約 交渉が難航したが [6][25][26][27] 、ボラスは交渉期限直前で松坂本人の意思を尊重 し [28][29] 、12月14日に総額5200万ドルの6年契約を結ぶ [30][31][32][33] 。レッドソッ クスファンであるアメリカ国務次官補のクリストファー・ヒルは、六カ国協議が行 われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」など と交渉の行方を気にかけていた。

レッドソックス時代

ボストン・レッドソックス所属時代の松坂

2007年 4月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初先発し、7回を6安打1失点10 奪三振の好投でメジャー初勝利を挙げる [34][35][36][37][38][39] 。本拠地フェンウェ イ・パークでの初登板となった11日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメ ジャー初対戦し [40] 、4打数無安打に抑えた [41][42] 。27日のニューヨーク・ヤンキー ス戦では松井秀喜と初対戦し、2打数無安打に抑えた [43] 。この試合ではNHKのテレ ビ中継で自己最速となる158km/hを計時したが、球場内の表示は94mph(約 151km/h)だった [44] 。5月9日のトロント・ブルージェイズ戦では大家友和と投げ 合い、7回を5安打1失点8奪三振の好投で4勝目を挙げる [45] 。14日のデトロイト・ タイガース戦では9回を6安打1失点の投球でメジャー初完投勝利を挙げ [46][47] 、19 日のアトランタ・ブレーブス戦まで5連勝を記録し [48] 、同月第3週のリーグ週間 MVPを受賞 [49] 。6月は2勝2敗、防御率1.59、WHIP1.09の好投を見せ、7月3日のタ ンパベイ・デビルレイズ戦で10勝目に到達 [50] 。前半戦は18試合の先発で10勝6 敗、防御率3.84、WHIP1.24の成績で折り返し、8月4日のシアトル・マリナーズ戦 で日米通算1500奪三振を達成 [51] 。後半戦は14試合の先発で5勝6敗、防御率5.19、 WHIP1.44と不調に陥るも、シーズン最後の登板となった9月28日のミネソタ・ツ インズ戦で日本人選手史上初・メジャー史上5人目となるメジャー1年目での15勝 と200奪三振に到達し、チームも12年ぶりの地区優勝を決めた [52] 。シーズン通算 ではリーグ10位の15勝、同6位の201奪三振を記録したが、与四球率はリーグワー スト6位、1試合の平均球数はメジャー最多の108.8球だった。 ポストシーズンではロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズ第2戦で 初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかった。クリーブランド・インディアン スとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発、4回2/3を4失点で敗 戦投手となった。第7戦は5回2失点で日本人初のポストシーズン勝利投手となっ た [53] 。コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズ第3戦で日本人史上初となる ワールドシリーズでの先発を果たし、5回1/3を2失点、打席でもメジャー移籍後初 安打となる2点適時安打を記録し、日本人初のワールドシリーズ勝利投手とな る [54] 。チームは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たした [55] 。 新人王投票では4位に入る [56] 。 2008年

ボストン・レッドソックス時代の松坂

開幕前に第2子が誕生 [57] 。東京ドームで行われた3月25日のオークランド・アスレ チックスとの日本開幕戦に登板。5回を2安打2失点6奪三振5四球の投球で降板し勝 敗はつかなかったがチームは勝利 [58][59] 。本国開幕戦となった4月1日のアスレチッ クス戦で初勝利を挙げ [60] 、5月まで黒星なしの開幕8連勝、防御率2.54、WHIP1.29 を記録したが、5月27日に右肩回旋筋腱板の張りを訴え故障者リスト入り。6月21 日に復帰し、前半戦は10勝1敗、防御率2.65、WHIP1.38を残したが、オールス ター初選出は逃す。7月22日のマリナーズ戦では8回までメジャー初完封のペース で好投を続けていたが、イチローに適時二塁打を打たれて完封を逃す [61] 。9月15 日のタンパベイ・レイズ戦で日本人シーズン最多勝となる17勝目を挙げ [62][63] 、21 日のトロント・ブルージェイズ戦で18勝目を挙げる [64] 。チームも2年連続でのポ ストシーズン進出を果たした [65] 。 ポストシーズンではエンゼルスとのディビジョンシリーズ第2戦に先発。5回3失点 で勝敗はつかなかったが、チームは9回に勝ち越して勝利した。レイズとのリーグ チャンピオンシップシリーズ第1戦では6回まで無安打に抑え、7回0/3を無失点の 好投で勝利投手となった [66] 。第5戦では4回0/3を5失点で降板し勝敗はつかず、そ の後は試合状況によるリリーフ登板も志願したが [67] 、チームは第7戦で敗れてリー グ優勝を逃した。 この年の与四球率5.05はリーグワーストながら、被打率はリーグ1位の.211、被 OPSはリーグ3位の.645。また、プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あった が、押し出しと犠飛こそあったものの、全て無安打に抑えた。またロードでの試合 は無敗で勝率.862を記録し、メジャーリーグ歴代勝率25位にランクインした。ま た、リーグ3位の防御率2.90、リーグ4位の18勝、リーグ2位の勝率.857を残し、サ イヤング賞の選出投票では4番目(2位票2票、3位票4票)となる評価を受けたもの の、1イニングの平均投球数がリーグ2位と多く、先発で18勝以上挙げた投手では メジャー史上最少イニングである投球回167回3分の2だったことなど、野手やリ リーフのおかげとする向きも多く(松坂が残した走者をリリーフが返したのは、無 死満塁で降板した6月21日だけであった)評価が二分された。セイバーメトリク スの観点からも、QSが14試合(規定投球回到達者88人中66位)でQS率が48%(同 64位)、K/BBが1.64(同75位)、FIP4.03(同42位)と悪く、BABIP.267(同6 位)、QS未満で7勝(同1位)、9イニング当たりの平均援護点6.1(同8位)と、運 に恵まれたとする数値が示された。WARではFanGraphsが算出したものではリーグ 19位の3.4、Baseball-Referenceが算出したものではリーグ6位の5.3と評価が分か れた。オフにMLB公式ホームページで行われた最優秀先発投手賞のファン投票で はティム・リンスカム、マイク・ムシーナ、ロイ・ハラデイに次ぐ4位に入っ た [68] 。12月には1998年度の横浜高校のメンバー対松坂世代のチャリティーマッチ に参加した [69] 。 2009年 第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。3月7日に東京ドー ムで行われた第1ラウンドA組第2戦の韓国戦に先発し、初回に金泰均に2点本塁打 を浴びたものの、以降は立ち直って4回2失点にまとめ、打線の援護もあって勝利 投手となった [70] 。3月15日にペトコ・パークで行われた第2ラウンド1組初戦 のキューバ戦では、6回無失点の好投で2勝目を挙げた [71] 。3月22日にドジャース タジアムで行われた準決勝のアメリカ戦では、4回2/3を2失点で3勝目を挙げ た [72] 。チームは翌日の決勝戦で韓国を破って優勝を決め、最多勝の松坂が2大会連 続で最優秀選手に選ばれた。インタビューの際には「岩隈くんに悪いなと思いまし た」とコメントした [73] 。 レギュラーシーズン開幕後は2試合連続で打ち込まれ [74] 、右肩の疲労を理由に4月 15日に故障者リスト入りする [75] 。復帰後は6月2日のデトロイト・タイガース戦で 初勝利を挙げる [76] 。19日のアトランタ・ブレーブス戦では川上憲伸と投げ合う が、4回を8安打6失点で黒星を喫する [77] 。その後も打ち込まれ、21日に再び故障 者リスト入りする [78][79] 。故障者リスト入り中には、日本メディアのインタビュー 記事で「この環境の中で練習を強いられ続けたら、僕は日本のようなピッチングは もう出来なくなるかも知れない」とチームの調整方法を批判したとも受け取られる 発言があったため「ここ数日報道されたことの誤解を解きたい。私は公に不満を示 したことはなく、私的な会話の内容が報じられた。(上述の)コメントはそれ自体 言ったことがない」と英文で声明を出し謝罪した [80][81] 。9月に復帰して以降は3勝 1敗、防御率2.22、WHIP1.35と復調したものの、シーズンを通しては4勝6敗、防御 率5.76、WHIP1.87とプロ入り以降もっとも悪い成績に終わった。チームは3年連続 でのポストシーズンに進出したが [82] 、ポストシーズンでは先発ローテーションに は入らず登板のないままチームはエンゼルスとのディビジョンシリーズで敗退し た [83] 。この年の不振の原因について、シーズン終了後の記者会見で、この年の WBCの前から股関節を痛めていたことを告白し [84] 、GMのセオ・エプスタインに 直接謝罪した [85] 。 2010年 スプリングトレーニング前から背中の張りを訴える [86][87] 。3月18日には第3子が誕 生したが [88] 、スプリングトレーニング中も首の張りを訴えて [89] 2試合の登板に終 わり、開幕は故障者リスト入りして迎える [90] 。5月1日のボルチモア・オリオール ズ戦で復帰 [91] 。5月6日のエンゼルス戦で初勝利を挙げるが5失点を喫し [92] 、次に 先発したブルージェイズ戦では7回3安打1失点9奪三振無四球と好投 [93] 。5月22日 のフィラデルフィア・フィリーズ戦では8回2死までノーヒットノーランを続ける 好投を見せたが [94] 、次に先発した27日のロイヤルズ戦では9四死球の大乱調を喫 するなど好不調の激しいピッチングが続く [95] 。6月7日のインディアンス戦で、日 本プロ野球2リーグ制以降最速となる日米通算150勝を達成 [96] 。しかし12日に右前 腕部の張りを訴えて再度故障者リスト入りする [97] 。6月24日のロッキーズ戦で復 帰し、5回を5安打2失点6奪三振の投球を見せ、打席でもメジャー公式戦初打点を 記録するが、救援陣が打ち込まれ白星はつかなかった [98] 。7月27日のマリナーズ 戦では2年ぶりにイチローと対戦し、3打数無安打に抑える [99] 。8月5日のインディ アンス戦では長谷川滋利に並ぶ日本人選手3位タイのメジャー通算45勝となる8勝 目を挙げる [100] 。15日のテキサス・レンジャーズ戦ではロジャー・クレメンスに次 ぐ球団史上2番目のペースで通算500奪三振に到達 [101] 。9月2日のオリオールズ戦 では日本人歴代単独3位のメジャー通算46勝目となる9勝目を挙げる [102][103] 。最終 的に、2年連続で規定投球回数未到達・1桁勝利に終わり [104] 、規定投球回数未到達 ながら降板時に残した走者21人は先発投手でリーグワースト10位だったが(その うちリリーフが返したのは6人)、本人や球団首脳陣は速球に手応えを感じたシー ズンだと振り返った [105] 。 2011年 スプリングトレーニングでは東日本大震災を受けて岡島秀樹、田澤純一、正田樹と 共に義援金を募った他 [106] 、100万ドルを寄付した [107] 。開幕後は2試合で7イニン グ10失点を喫し2連敗したが、4月18日のブルージェイズ戦で7回1安打無失点1四 球3奪三振の投球で初勝利。23日のロサンゼルス・エンゼルス戦では8回1安打無失 点3四球9奪三振の投球で2勝目を挙げ、15イニング連続無失点を記録した他、5月4 日のエンゼルス戦では延長13回に8番手としてメジャー初となるリリーフ登板を経 験(2死満塁から2点適時打を浴びて敗戦) [108] 。しかし4月29日のマリナーズ戦で 途中降板するなど4月末から右肘に張りが生じ、5月17日に故障者リスト入り。一 時帰国を経て31日にルイス・ヨーカムによるセカンド・オピニオンを仰ぎ、6月10 日に同医師の執刀によるトミー・ジョン手術を受けた [109] 。 2012年 6月9日のワシントン・ナショナルズ戦でメジャー復帰。球速は平均球速 91.5mph(約147.3km/h)、最速93mph(約150km/h)を記録するが、5回を5安 打、4失点、8奪三振、1四球の投球で黒星を喫した [110][111] 。その後4試合に先発す るも白星はつかず、7月3日には右僧帽筋を痛め故障者リスト入り [112] 。8月27日に 復帰し、その日のロイヤルズ戦に先発。7回を5安打、1失点、6奪三振、2四球、最 速94mph(約151km/h)を記録する投球で、日本人史上4人目のメジャー通算50勝 目となる復帰後初勝利を挙げる [113][114] 。しかしその後の登板は全て4失点以上を 喫し白星を挙げることができず、シーズン最終登板となった10月3日のヤンキース 戦では黒田博樹と投げ合うも、2回1/3を投げ2本塁打を含む6安打、5失点の投球で 7敗目を喫しシーズンを終えた [115] 。防御率8.28は10回以上先発した投手としては 球団史上最低の成績であった [116] 。10月29日にFAとなった。

インディアンス傘下時代

2013年 2月13日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだことが発表さ れる [117] 。背番号は西武入団時から付けていた18に変わり、20となった(イン ディアンスでは18番がメル・ハーダーの永久欠番となっているため)。スプリン グトレーニングには招待選手として参加し、4試合の登板で8イニングを投げ防御 率2.25、WHIP1.38の成績を残すが、3月18日に開幕マイナーを通告される。しか し、マイナーで開幕を迎えた際に球団が支払うボーナス10万ドルを節約する目的 で24日に一旦自由契約となり、26日に契約内容を変更したマイナー契約で再契 約 [118] 。AAA級コロンバス・クリッパーズで開幕を迎え、開幕から5試合に先発す るが、与四球率7.84と制球に苦しんで防御率3.92、WHIP1.45の成績を喫し、4月28 日のポータケット戦の4回に左脇腹を痛め、故障者リスト入りする [119] 。6月に復帰 し、前半戦は12試合の先発で1勝5敗、防御率4.55、WHIP1.39の成績を喫する。後 半戦は7試合の先発で4勝3敗、防御率3.13、WHIP1.21と復調したが、8月20日に契 約解除を申し出て自由契約となる [120][121] 。

メッツ時代

8月22日にニューヨーク・メッツとメジャー契約を結ぶ [122][123] 。メッツにはレッ ドソックス時代まで付けていた背番号18の選手はいなかったが、野茂英雄やドワ イト・グッデン、デビッド・コーンが付けていた16を背番号にする [124] 。コロンバ スでの先発登板から中3日で23日のタイガース戦に先発したが、2回までに2本塁打 を浴び5回6安打5失点で黒星を喫する [125][126] 。移籍後3試合で12回1/3を投げ15失 点を喫していたが、9月15日のマイアミ・マーリンズ戦で、7回2安打1失点の投球 で初勝利 [127] 。移籍後4試合目以降は26回1/3を13安打6失点と好投を続け、初勝利 から3連勝を記録してシーズンを終える [128] 。9月にはスコット・ボラスとの契約を 解除しSFX社と代理人契約を結ぶ [129] 。10月31日にFAとなった。 2014年 1月24日にメッツとマイナー契約で再契約する [130] 。招待選手として参加したスプ リングトレーニングでは6試合の登板で23回2/3を投げ、防御率3.04、WHIP1.27の 成績を残す。3月25日までにメジャー契約を結ばなければFAとなる権利を持ってい たが、同日にメッツが10万ドルを支払いマイナー契約を延長し [131] 、31日にAAA 級ラスベガス・フィフティワンズへ異動した。4月16日に成績不振であったジョ ン・ラナンと入れ変わる形でメッツとメジャー契約を結ぶ [132] 。20日のブレーブス 戦では延長11回から登板し3回を投げ、日米通算2000奪三振に到達する [133] 。