終章より抜粋

前回の続きです。


では一方、人間が生前において、自分の心、精神世界に『聖の親様』をいただかなかったら、どうなるのであろうか。

それがこれからお話する、死後、霊界で高い世界にのぼるためのふたつ目の方向である。

子供(人間の魂)は、一軒家(人間の肉体)が消失してしまうと同時に、野原(大霊界)にたったひとりでほうりだされてしまうのである。先生(『聖の親様』)のお導きなどいっさいなかったので、何をどうすればよいかわからず、あわてふためき泣きわめく。しかし、そこには、その悲痛な泣き声を聞いてくれるものすらいない。やがて、涙もかれ果てて、子供はただ呆然と野原(大霊界)に立ちつくすのみである。


生前、自分は罪を犯すこともなかったし、まずまずふつうのいい人間だったと思っている人であっても、その心、精神世界のなかに『聖の親様』をいただかなかった人というのは、死後、大霊界の各段階をのぼつていくのに、難行苦行がつきまとうのだ。

幽界、霊界、仏界、神界、そして聖天界…と、一段また一段とのぼっていくのを、誰も助けてはくれない。

自分の力のみで、あれこれと努力をしながら徐々に上昇していくのには、千年、万年、億年とかかる。

ときには、苦心惨憺してある程度のところまでのぼったものの、途中でころがり落ちてしまうこともある。道のりは険しく、あおぎ見れば行く手は気を失いそうになるほど、はるか彼方なのである。

そして、ようやく聖天界にたどり着いたところで、いよいよ、火の壁の向こうにある大霊界の頂点たる天命界をめざして、それこそ血のにじむような修行が始まるのである。


以上、死後、霊界の高みへのぼるためのふたつの道筋について述べてきたが、よくおわかりいただけただろうか。

人間、この世に生きているうちに『聖の親様』を自分の心にいただき、つねに神の心に適う生活を要としている人と、そうでない人とでは、霊界入り後の第一歩にこれほどまでの違いが生じてしまうのである。


ここで少々、わたし自身の話をしてみたい。

すでに『大霊界』シリーズをお読みになられた方は、わたしの人生が、ふつうの人生とはかなりかけはなれたものであったことを、ご承知のことと思う。

わたしのたどった神霊の道。その肉体を切り刻まれるほどの塗炭の苦しみにあえぐ日々をつぶさにふりかえってみると、たとえば先ほどの「野原の一軒家」の話になぞらえたならば、まず、野原に建つわたしの家は、わたしの人生のだいぶ早い時期に、いろいろな要因によってすでにこわされてしまっていた、ということがわかる。

わたしは幼くして、ひとり、大霊界たる野原にほうりだされてしまっていたのである。

さらに、その野原に立ちつくすわたしに、地獄の悪霊をはじめとする、さまざまな霊たちのひきもきらぬ猛襲があったわけである。ふつうの人がたどる人生とはぜんぜん違うものであった。

しかし、思えばこれも、わたしが神の修行をするようにと、神様がわたしのためにくださった人生だったのだ。神様は、「我が子なれば千尋の谷からはいあがれ」とばかりに、わたしにつぎからつぎへと、あらゆる苦難を与えたもうた。


そして今、私は思う。神様の愛のなんと深かったことか…と。

神様は、決して、わたしをなめかわいがりはなさらなかった。それどころか、逆に、我が子を苦しみの淵につき落とすという愛を示された。

そして、神様は、そこから我が子が自力ではいあがってくるのを、じっと待たれたのだ。

これこそが、本当の神の愛なのだと、今にしてわたしは悟る。親の過保護のもとで育ってきてしまったような人には、こうした本当の神の愛はとうてい理解できないかもしれない。わたしは、かくも深く神に愛されたのだ、と思っている。

わたしは、自分のこれまでの人生やさまざまな実体験をとおし、神の実在を知り、大霊界の真実のすがたを把握しているからこそ、いつもみんなに、「自分の心に『聖の親様』をいただきなさい」「神こそわが命、と思いなさい」といっているのである。

つまるところ、『聖の親様』のお心に適うよう、最善をつくして生活していくことこそが、この世に生を受けた人間にとって一番たいせつなことなのである。