今回のお城は江戸幕府の始まりと終わりの場所として知られる、徳川家康が京都に築城し、明治からは皇室の所有となっていた二条城(にじょうじょう)です
この二条城は冒頭の通り徳川家康によって西暦1603年に築城された輪郭式の平城で、正式名称は元離宮二条城です
城全体が国の史跡となっている他、国宝の二の丸御殿を始め国宝・重要文化財が多くあり、二の丸御殿庭園は特別名勝に指定されていて、1994年にユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」に登録された場所です
実際には日本史において二条城という名の城は複数あり、室町幕府の将軍である初代足利尊氏〜義満までの三代が京都の二条に構えた屋敷、室町十三代の“剣豪将軍”で有名な足利義輝の居城、十五代足利義昭の居城となっていた城、織田信長が京に滞在の折に宿所とした御所
そして今回の徳川家康が京都守護と宿所として建てた城です
どれも“二条城”と呼称されたので混乱しがちですが、いずれも別物となります
徳川家康は関ヶ原の戦いの後の西暦1601年、京へ上洛の際の宿所としてこの二条城の築城を決定し、天下普請によって大名にその任を割り振りました
そして1603年に伏見城で家康は征夷大将軍の任を宣旨、そこから完成したばかりの二条城に入城して将軍就任を宣誓する拝賀の礼と祝賀の儀を行いました
このため二条城は江戸幕府の始まりとされます
その後ここで家康と豊臣秀頼が会見した時に、秀頼の成長を見て危機感を抱いた事が豊臣を滅ぼす決意となったという説があります
さらには大坂夏の陣においてこの二条城に火を放って混乱の中家康を暗殺しようとした者を捕縛の後に磔、その上役である茶人で稀代の数寄者の古田織部も切腹と家財没収となっています
そして幕末には有名な徳川慶喜による大政奉還がここで宣言され、徳川幕府は終焉となりました
その後宮内庁の管轄となって「二条離宮」と呼ばれます
現在のように「恩賜元離宮二条城」として一般公開がされるようになったのは昭和15年のことです
徳川から皇室のものになったと分かるのは、二の丸御殿の破風などの天皇家の菊紋の下から徳川の葵紋の跡が発見された事から窺い知れます
ちなみに二条城としてよく知られた建築物は二の丸御殿で、元々こちらにも天守があったそうですが、移築の後に明治で破却されたか現存はしていないようですね
⚫︎城内地図
それではスタンプをぽんっ!
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