淳の自己満足型批判論 -3ページ目

核兵器から世界を知る

さて、最近「核兵器」について自分なりに研究しているのですが、我が国の国民はこの問題について関心がなさすぎるのではないかと思います。

私も核兵器は「怖いものだ」という認識はあったものの、核兵器の歴史や経緯などは全く知らなかった。

しかし、研究を続けるにあたって様々な問題が世界を脅かしている事に気づきました。

「核兵器」と聞いても国民がどう騒いでも解決できる問題ではありません。

だから、興味がない。


違いますか?


消費税や所得税の増税となれば少なからず政界のニュースに目を向けるでしょう。

しかし、「核」と聞いて興味津々という方は少ないのではないでしょうか。


核は、ご存じ武力です。

なぜ、世界を破滅させる威力を持つ武力を発展途上国は持ちたがるのか?

安全保障理事会の常任理事国(米、仏、露、中、英)はなぜ核を持てるのか?

IAEAの権力はなぜイランやパキスタンに及ばせないのか?


疑問は山積みかと思います。

こういった問題に目を向けると、アメリカがどれだけ世界に迷惑をかけ、経済を左右してきたかがわかるのです。

ブッシュ政権からオバマ政権へ変わり、「核の抑制」は進行していますが、まだまだ問題も山積みです。


世界の問題、つまり環境問題、金融問題、武力問題などを国民が議論する事は無駄ではありません。

国民の意思が国政に反映する事は言うまでもありませんから、一人一人の意識、これが国家の意思なのです。

国会議員は日本のために働いてると思いますか?

そもそも、「○○のため」という前置きほど嘘くさいものはありません。

歴史を見ても、独裁者が経済を発展させることは珍しくなく、迅速性でいえば独裁が一番よい。


権力を持つ者を国民が監視するというのが日本のシステム(議員内閣制)です。

監視能力のない国民ばかりでは意味がないと思いませんか。


結局、今の日本は1970年代の株式保有形態そのまんま。

既得権益保護を経営者(行政)が独裁し、監査役(国民)は代表取締役が選ぶといった形が当てはまる。

こんな機能しないシステムを打開する手段はただ一つ、教育だと私は思います。

前も話しましたが、義務教育機関の「教師」の質、さらに教育方針全般を定める機関(教育委員会)をグローバルな視点で改善すべきと考える。

教師の仕事を細分化し、さらに教師という職業を格上げすべきだ。

教師は未来の人材を作る職人といっても過言ではない。

たかが教職課程を卒業した大学生が就ける職にしている時点で、世界を圧倒する教育理論が展開できるわけがない。


世界問題、金融問題、語学こそが一番学ばなきゃならない事じゃないのか?


まずは国民の意識を改革してほしい。

男の幸せって?

昨日、亀有駅付近で自動車専門学校時代の仲間と忘年会をやりました。

二年ぶりだったので、卒業してから会ってない人ともも再会できて非常に楽しい時間を送れましたキラキラ

中でも当時担任だった先生と今の日本のシステムやら新入社員の選考基準について熱く討論しました。

お互い我が強い性格なので意見が噛み合わないところが逆にうれしかったですね。

そこで問題になって議論なんですが…



男は家庭に生きるべきなのでしょうか?







いや、私はそう思わない。




家庭を大事にすることは必要(てか当たり前)だけれども、人生においての結果を出すことが男の醍醐味ではなかろうか。


安定とか、幸せとか、老後とか、、、


そんなもん考えてたら自分は100%の実力を出さずに人生ゲームをクリアしてしまわないだろうか。


なにも家庭は放っておけというわけではないのだが、家庭が一番!という考えに私は賛同できない。



この意見に反対する人に問いたい。



あなたは何をするために生まれたの?



と。



独身の方で家族を幸せにするためだ!なんて胸を張っていえるのだろうか。




私は自分の可能性がどこまで通用するのかをチャレンジするために生まれたのだと思う。男も女も。



間違いなく家族の幸せを一番に考えたいなんて発想はでてこない。(あくまでも独身者)




つまり、結婚して家族を大事にするってのは私にとって二、三番手で、まっさきに希望するものじゃない。



ある程度自分の野望に向き合って納得してから結婚すべきだと思います。



もちろん、家庭を大事にしない人は家庭崩壊の恐れなどもありますが、家庭を大事にする依然にやるべきことを「先」にやれば、何も問題ないのではないでしょうか。



結局、順番を間違えて結婚を先にするから、攻めの自分を忘れ守りに入り、「家庭が大事」という一般人が創り出した一般論にすがってしまうのではないか。

こういうケースが日本では「大半」だから、自分が攻めを忘れて守りに入った事に違和感を感じないのでは?

みんなと「同じ」で安心する事が「普通」になってしまい、慣習に流される人生って何が楽しいのだろう。


なにも君は女を幸せにするために生まれたわけじゃないでしょう。


これはあくまで私の持論であって、既婚者が云々というわけではありません。



好きな仕事をして、好きな女と一緒になることは非常に素晴らしい事だし、理想です。

ただ、現実に大きな不満を持ちながら「嫁がさ~ダウン」とか言ってる人ほど、自分に一般論を言い聞かせてごまかしてる「自分と戦わなかった人」になってる気がする。

ぶっちゃけ、冒険と家庭を上手く両立することは難しいです。

だったら、結婚せず自分が納得いくまでやりたい事をやるべきです。


結婚はいつでもできるけど、夢はいつでも叶うものじゃない。



優先順位は自ずと決まっていると私は思います。

検察審査会不要論に怒る体験者

検察審査会軽視に怒る体験者について。

「国民参加の検察審査会制度があまりにも軽視されている」
という怒りの電話が相次いでいるらしい。

小沢一郎氏への2度目の起訴相当との議決が発表されるや、突如として脚光を浴びた検察審査会。

審査員はろくな議論をしていないのではないか?と審査会批判が取りざたされた。

審査会潰しをもくろむ者まででている。

確かに、両者の意見は食い違っているものの、正論ではないかと私は感じる。

まず、審査員だが、彼らは自ら望んで審査員になったわけでなく、犠牲も払っているわけだ。
それに、真剣に議論に取り組んだという自負もある。

審査員の所属する会社は無条件で労働力を奪われてまで送り出す。

それを日当数千円で埋めなさいと言われ、それを不要論者に批判されたら怒りを覚えるに違いない。

検察審査会のなりたちは終戦直後に遡る。司法の民主化の一環として、GHQは陪審員制度と検察官の公選制の導入を求めだが、日本は戦前に失敗していることを理由にこれを退けた。
それに変わる代替案として検察審査会制と検察官適格審査会だった。

事実、新制度は検察の民主化を謳いながらも、起訴独占主義、起訴便宜主義を残し、検察審査会に強制力を与えないという矛盾を抱えたままスタートした。検察審査会制度は戦後、特殊な状況下で政府の対抗とGHQの思惑が絡み合って生まれた異端児というわけだ。

つまり、旧検察審査会はまったくの骨抜き状態で成立させてしまったわけである。

検察審査会法には
「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図る」という目的が明記されている。
この意義は、一般市民の常識を反映させること、検察が適正か否かを一般市民がチェックすることである。

明日、それぞれについて見ていきたい。