以前、九州歴史資料館で買い求めた「福岡県の近世城館跡」です。

さすが、岡寺さん。

江浦城、田中主水正が入った後、田中河内守が二万石で入ったとありますね。

この田中主水正が、吉信の後に久留米城に行ったんですよね。
そして、その次は河内守吉久も。
謎々のようです。
この、田中河内守吉久が、確実に田中吉次だという史料を集め中なのです。
近江国神崎郡の編纂の人が、何を見て、河内守吉久が吉次だと思ったかです。
今、古本屋さんに注文中です。
毛利の隠密が書いた慶長11年の書状に、江浦城主は、河内守吉久で、1万五千石で、筑後殿と呼ばれていたと。
家老職でした。
そして、「郷土江浦町」、「筑後将士軍談」には、ゆえあって、主水正の後に江浦城から久留米城に移動したと。
そのわけは、吉信が病気になり、代わりに忠政が入ったけど、父の吉政が亡くなり後継したので、吉次が入り采配。
でも、やはり、「田中興廃記」1822年からの「筑後将士軍談」1861からの…なのか。
書状を見つけて、割り出すしかない気がします。
たぶん、だれも、この二人が同一人物だと感づいていない。
久留米城は、河内守吉久の前に坂本和泉守が入ったと書いてあります。
坂本和泉守は、一国一城の後処理に関連した書状を出しています。
なので、その頃には、吉次は中央に行っていたと考えたらよいのでしょうか。
なので、田中氏の時代、筑後国久留米城は、田中吉信→田中主水正→田中河内守→坂本和泉守ですねぇ。
(´∀`*)ウフフ