先日、野田市堤台の田中吉次子孫のご家族の方から、送って頂いた「野田の史跡を訪ねて」野田市立興風図書館編著・出版1987から、抜粋でご紹介します。

田中家は、「堤台延命地蔵尊」を現在まで堤台村元名主田中(助右衛門)家が守護してこられたそうです。
以下。

「田中さんのご先祖は、どこから来られた方ですか。」

「天正十八年(1590)家康関東入部後、三河国岡崎に配され7万三千石の城主となり、慶長五年(1600)の関ケ原の功によって筑後柳川城に三十二万石を領する大々名になったのです。

そして、その子吉次は、父に代わって岡崎城を守っていましたが、父と折り合いが悪く、家督を弟忠政に譲り、文禄から慶長年間に、自ら武州(埼玉県)赤沼に身を寄せておりました。

しかし、赤沼は、自然の災害(水害)から身を守るに不便な所であったため、後、大河戸へ、そして、慶長の終わり頃、この堤台の地に居を構えたものと思われます。その頃、堤台村は、城主岡部長盛の支配地でありましたが、長盛は、慶長十四年丹州(京都府)亀山に移封になりますので、居城取り払いの役を仰せ付かったと伝えられているのも、そのような事情によるものだったのでしょう。…」

世の中の歴史では、父との折り合いが悪くは、定番ですし、岡崎に残ったのも違いますが、これは仕方がありませんが、何より、大まかに吉次の堤台に居を構えたことが分かるので、大進歩です。

1、岡部氏は、堤台城から丹波亀山に移ったのは1609年。この時居城取り払いの役を仰せ付かった。
2、岡部氏の正室はお大の方養女
3、近くの関宿城は松平康元1590年に入り、1603年に亡くなり嫡男の忠良が継ぎました。筑後国を継いだ田中忠政の正室が、この松平康元の子女。忠良の妹になります。しかも、筑後国の改易の時、柳川に明け渡しのお役で来ているのは、7人の内岡部氏と忠良です。
4、つまり、田中吉次が、堤台に来た時は、まだ忠政も生存していたわけで、忠良と吉次は義兄弟になります。岡部氏とは、義おじ、義甥の仲になります。
5、大河戸は、天領で、江戸幕府の管轄です。

どうも、徳川家の親戚間で、何か動いていませんか?