注文していた復刻版「おあむ物語」が届きました。

発行所は岐阜県郷土資料研究協議会です。

会員配布資料らしいです^_^が、お安く買えました。

おあむ物語

関ケ原の戦前後の、田中吉政の行動が読み取れるかもしれません。

1、城は、大垣城とあり、文中に、田中兵部殿ーと叫ぶ声がした。
 定説は、城の者を怯えさせる神経作戦だったであろうと書かれているが、私は、籠った者の中で、吉政隊と知って、夜中に助けをもとめたのではないかと思う。
2、攻めている側が田中兵部殿と書かれている。合渡川合戦時の勝利した吉政の名を覚えていたからと書かれているが、違うと思う。
3、大砲を撃つ前に、撃つことを城の周りにふれ回り知らせて撃ったことは、なるべく死傷者を出さないよう配慮した気がする。
4、作者の父山田去暦が、徳川家康の手習いの師匠だったので、「由緒あるものであるから、城から逃げたければ、助けがあるであろう。どこへでも落ちなさい。通行の障害はないだろう。諸方へ報せおいた」と矢文が来て、手助けをしてもらい、盥(たらい)で堀を渡った。家康の幼い時だと、山田氏との年の差が不自然なので、吉政の子供の事を後に加筆したのかもしれない。吉政が、配慮したと思う。
5、14歳の弟が撃たれて亡くなったので、その姉の年がおおよそ分かる。1667頃で、80歳余でなくなったとされるので、当時16歳くらいだったと思う。
5、一家が逃げる途中、母親が産気づいて子供が生まれた。山田氏のおおよその年が分かる。


9月14日に佐和山城が落ちた後、15日には石田三成が大垣城を出て関ケ原へ、そして城は残されていました。

「おあむ物語」は、その時の話でしょう…。

田中吉政は、佐和山城攻めにしか行っていないということが定説になってそのことで、このお話は佐和山城の話だと言われていますが、逆に、吉政は18日に大垣城にも行ったのではないでしょうか。

1600年8月10日石田三成大垣城へ入り、西軍結集
     8月14日石田三成大垣城を出て関ケ原へ
     8月23日合渡川合戦で、吉政、軍功をあげる
     9月15日関ケ原の戦
     9月17日佐和山城落城
     9月18日大垣城落城
     9月21日石田三成捕縛される

そして、大垣城の落城にも立ち合ったのかもしれませんね。

せっかく、良いヒントを書き残しておられるのに、受け取る側が、上手にすれ違っている。

いつものことですが。

ちなみに、佐和山城は、盥(たらい)で渡る堀はないそうです。


山城ですよね、佐和山城。