筑後国江浦城のそばを、慶長本土居が通っています。
「福岡県の中近世城舘跡筑後地域.総括編」の昭和23年当時の江浦城周辺航空写真を見ると、どれに当たるのだろう。
半田先生の慶長本土居コースを見ると…、淀姫神社の下を通り、国道208号を横切って江浦町を弓形に曲がって再び国道208号を横切り、江浦小学校前の道に繋がると書いてあります。
その淀姫神社の前から右に曲がるのは、どこだろう?
悩みます。
神社の右が本丸跡らしいので、これってここの慶長本土居は、城の周りの防御の御土居の役目もしていたのでしょうか?
今は、まだ、検討を始めたばかりなので、断言はできませんが、田中吉政公は、筑後国の支城全体を考えて城の配置と城の防御の土居を作った?
それも、干拓を見込んだ場所も考えながら…。
凄いことですね。