最近、城好きな人のサイトや、ウキペディアなどに、柳川城の事を書いてあるのを見ると、とても残念です。
なぜなら、彼らは、柳川城は、蒲池氏の時代文亀年間(1501年から1505年)に築城し、すでに「柳川三年、肥後三月、肥前、久留米は朝茶の子」と言われたと書いてある。天守閣を見て、舞鶴城などと呼ばれたと。1501年は、どんな時代か、どのような城が築かれたか知っていますか?

長浜城だって、1573年に築城ですよ。
岡崎城だって、吉政が天守閣を造る前は、土塁に櫓が建っている程度だったそうです。
天守を構える時代は、1501年よりずっとあと。ずーーとあとです。

城もそうだけど、堀のことも、すでにあって吉政公が改修した、その程度にかいてあります。

柳川の城は、「織豊系の縄張りを技術ふんだんに用いて構築されたことが明らかである。同時にその縄張りは、複雑化した織豊系縄張りが簡略・形骸化に向かう慶長後期の傾向を先取りした、最先端の縄張り的展開を見せたものであったと評価できる。」(城郭の縄張り構造と大名権力 小島孝之著の田中領本城柳川城の項)です。

おいおい…、その蒲池氏の時代の蒲地本城は東西約54m南北38m。湿地帯の中に作ったでしょう。それは、攻めにくかったかもしれませんよ。でも、城はというとその時代の方形居館。

みなさんは、地元の書かれた「南筑明覧」と「蒲池物語」に惑わされています。豊臣秀吉の長浜城が出来たのが1574年。

1501年って、なんで、そんなすごい城が、その時代ある訳ないと思わないのか…へこんでしまいます。

天守閣も、田中の時代に造ったとされているのに…。天守閣も、三重の堀もない城を舞鶴城とは言わないでしょう?

水門を開ければ、攻めた側、城の外が水攻めに合う、そんな城を造ったのは田中吉政公です。

誰か、間違い、またそれをそう思ってしまって、書いてしまった伝言ゲームが発生したのでしょうか?

近江国や、岡崎などを調べていて、まさか地元がこうなっちゃっているなんて、気づいて、がっかり。

さて、さて…。対策を考えねば。

地方の小さな国の集合体だった筑後国に、中央からやって来た、城や石垣のスペシャリスト、秀吉の直属で清州城、丹波国の各城、伏見城、近江八幡城、岡崎城、数え切れない城の縄張りを監督してきた田中吉政公の本当の姿を、もっと知るべきではないでしょうか。