「そうだよ」犬神は一拍おいた。どうやら、事件そのものが消滅したことにニンマリしているようだ。「おまえにはオレが報告書を書かないで済むことに喜んでいるように見えるだろうな?実際、そうなんだから見えたってしょうがねえが、ケド、勘違いすんなよ。オレは報告書を書くのが嫌なわけじゃねえぞ。これまで何千何百って書いてきたし、刑事の仕事の半分は報告書を書くことだと思ってる。ナメクジが通った後にはテラテラした跡を残すっていうだろ。それとおんなじさ。刑事が生きていこうと思ったら報告書の山が必要なんだよ。だから面倒だとは思わないし、オマンマを食うように続けてられる。ただな今度は、一応人が死んでるわけだ。すると、内務委員会が動くということになる。オメエはどんだけヤツラがオレを目の敵にしているか知ってるだろ?ヤツラの言い草は決まってる。ちょっといってみようか?こうだよ。”君は首をチョン斬ると人間が死ぬとは思わなかったのかね?” こうくるんだ。”どうして他の所を斬らなかったのかね?” こうもいうだろ。酷い話なんだよ。結局、ヤツラは何もわかっちゃいないんだ。なんしろ、机の上で鉛筆転がして給料を貰っている連中なんだからな。オレはだから、なるべくだったらヤツラには会いたくないと考えてるだけなんだ」

 「主任、今度のことは思ったより奥が深そうだ。自分なりに追ってみますよ」京極はいった。

 クラクションを鳴らそうとした矢先に、赤い光りの帯はほどけていった。京極はブレーキからアクセルへと足を移した。どうやら事故でも工事でも検問でもないらしい。たまたま、のろい車が動脈硬化のように固まっていただけなのだろう。彼がホッとしていると犬神三郎がまたいった。

 「それはそうしたほうがいいと思うよ。だって、あのダンビラにはオマエの指紋がベットリついているんだからな」

 

 次の日、出署した時間は正午を過ぎていた。刑事部屋には誰もいず、その乱雑な様子は大きな生き物の抜け殻のようで、胸のつかえそうな侘しさが漂っていた。京極進が自分の席に着こうとすると、犬神三郎が戸口からヌッと姿を現わした。

 「だれもいないんですよ」

 京極はあわてていう。犬神が自分と同じように、たった今出署したばかりとは思っていなかったからだ。

 「飯でも食ってんだろうよ」と犬神が言い終わった途端に、高見秀樹が下平芳夫と部屋に入ってきた。下平は口に楊枝をくわえている。黒縁のメガネをかけ、頭頂部のハゲた痩せて弱々しい感じのする男だった。交通課の所属なので、ゴワゴワした野暮ったい制服を重そうに身にまとっている。ピチッとした襟元から、尖った喉仏が突き出ていて大袈裟にヒクヒク動いていた。

 「ヤア、英雄がふたりいるぞ」

そう言った下平の目はメガネのおかげで細工物のように倍にも膨らんで見えていた。

 「君たちは本当に大きな仕事をした。わが署の誇りだよ」という。

 犬神と京極は聞かぬふりをして自分たちの席へ同時に腰かけた。ふたりの席は隣り合っている。

 「係長、みんなどうしたんです?」犬神が高見秀樹を見て聞いた。

 「みんな、交通課の応援に出かけた。君たちにもいって貰おう。下平、今から出ていく連中はいるのかい?」

 係長は大きな体を揺すっていう。遅れてきた手前、昼飯がまだだともいえない。わけがわからなくとも京極は観念した。

 「十蔵の分隊がもうじき出発するはずだ。便乗していくとイイ。英雄にさせる仕事じゃないが何事も経験だ。恥になるってわけでもないだろう」

 下平はにが笑いしながらすぐに電話を取り、応答した配下の者に指示を与えた。

 

                         続く