辺見は生きているとは思っていない。急がなかった。

 「おうそうか。そうすりゃ、何もかもがハッキリする。ナア、オッサン。あのボロ屋に何があるかチョイと見せてもらうぜ。百聞は一見にしかず。これでアンタのいったことが本当かどうかすぐにわかる。ナーニ、今んところは落ち着いてろ。ナーニもしりませんて顔してろ。ほんの1分か2分の間だ。だけど、オレが家から出てきた時は覚悟しろ。オマエの人間としての時間が終る時だ。でも、勘違いすんなよ。アンタはそん時死ぬわけじゃネエ。自分次第であと何年かは生きられる。ただ、生きていてももう人間とは見なされない。え?わかるか?それとも難しすぎてわからねえか?ま、わかろうがわかるまいが、そうなることは間違いない。サーテ、もう30秒すぎた。チクタクチクタク、時計は進んでらあ。ナア、オッサン。正直にいってみな。アンタ、オレに家の中、見られたいのか見られたくないのか、どっちだい?」

 「サッサといけよ。ナオ!」犬神がブチ切れている。さぞ酷いことになるだろう。

 「がなんなよ、サブ。おれは苦労した分、楽しんでるだけじゃねえか。こうした時間こそが、デカ冥利に尽きるってもんだぞ」

 辺見直介は家に向かって歩き出した。それを妨げようと、下田英孝は体を動かそうとした。

 「動くな!動くと殺すぞ」

 犬神三郎の怒号が響いた。下田英孝は雷に打たれたように体を突っ張らせた。辺見直介は家の中に消えた。

 下田英孝は地べたにへたりこみそうになるのをジッと耐えていた。自分の甘さに後悔して胸が裂けそうだった。奇跡がおきて病気が回復した途端にこの始末である。泣くに泣けない。あきらめるには味わった苦しみが深すぎた。この場を脱したい。なんとしてもこの場からのがれる。そのためだったらどんなことでもする。

 ”逃げるんだ。逃げるんだ。逃げるんだ。逃がしてくれ” 彼の顔面は漆喰のように白くなった。

 今がチャンスだ。強そうな大男は家に入った。黒ずくめの男の男は険悪な形相をしているが、体格的にはほとんど自分と変わらない。この男を蹴散らして車までたどり着ければ何とかなる。車にはボウガンがある。ありったけの矢をコイツらにたたきこんでやる。たとえそれが失敗したって、走りだせばこの辺は自分の庭と一緒だ。知り抜いている。絶対に逃げきれる。

 戸を蹴破る音がして、辺見直介が平屋から出てきた。彼は頭上に両手をかざして大きな輪っかを作っている。

 「大変なことしてくれたな、オッサン」

 その声が聞こえた時には、下田英孝は犬神三郎に向かって突進していた。

 「ウワーッ」と大声を発し、両腕を突き出しながら闇雲に突っかけた。犬神はその両腕を避けながら掴んだ。絞りこみながら自らの体を縦に回転させる。パキパキと竹の割れるような音がした。それとつんざくような悲鳴。次に犬神は下田の脚を払った。うつ伏せに倒しておいて、両方の脛を地面と直角に立たせた。それを脇に丸抱えして、今度は横に回転した。同じような乾いた音がした。最後にかれは上から下田の顔面を両手で押えた。悲鳴が止んだ。手を離した時には、下田の顔は醜く伸びきっていた。全ては電光石火の出来事だった。

 犬神三郎は立ち上がってシューと気を吐いた。その足元で、下田英孝は首をちょん切られた蛇のようにのたくっていた。

 

                            続く