向井の血の気が引いた。彼は瞬時に加代のれに握られたアイスピックの光りを確認した。どうしようとは決めてなかったが、拳銃を保管してしまったことをチョッピリ後悔した。だが、京極は動かなかった。粘土の人形のようにヘナヘナとテーブルに崩れた。

 加代はアイスピックを氷の浮いたボールに戻した。

 「ねえ、わかったでしょう?京極君。あなたはひとりで生きていくの。そうしたものなの。死ぬまでズッとね。だからひとりにしてあげる。わたしはこの人と一緒に寝るから、、、」加代は向井を促して寝室に入っていった。

 京極はしばらく突っ伏したままでいて、ふたりの嬌声が聞こえ始めた頃、身を起こしてジョッキにタップリと氷を溜め、並々と酒をついで一気にあおった。それを何度か繰り返しているうちに、彼はジョッキを持ったまま床に崩れ落ちた。

 意識が遠のいていく時には、なぜだかとてもいい気分になっていた。

 

 同時刻、下田英孝は目覚めた。家の近くの草むらでだった。しばらくして彼は己が生きていることにやっと気づいた。その時は、己が死んだと思っていたことにも気づいてハッとなった。あわてて体を探る。脇の下から腰にかけての横っ腹がひきつれたように痛むくらいで、普段と変わらない己の体がそこにあった。彼は生きているのが嬉しくて涙をボタボタとこぼした。突っ伏して、草の上を転げ回ったりしていたが、そのうちとんでもないことに気づいた。

 頭が痛くもないし重くもない。

 戦慄にも似た驚きが、背骨を凍らせて走った。信じられなかったので、彼は意識の中にそれを探った。脅えながら恐る恐るだった。薄皮を一枚剥ぐと、冷たい存在感をもって、それは姿を現わすだろうとの諦めもあった。ところが、彼は平坦地にいた。イバラもトゲもなかった。果てしのない遠くまで見渡せた。一度確認したくらいでは、簡単に信じることはできない。彼は5回も6回も繰り返し確認した。

 それはやはりカケラもなかった。露と消えていた。あれだけ深く根をおろしていたものが魔法のように消えている。小康状態では決してなかった。それは苦しみ続けてきた経験で判別できた。まるで、脳みそを取りだして、ザブザブ洗ったような爽快感である。

 どうしようもなく体が打ち震え、火に炙られた猫のように周りを転げ回った。ウオーウオーと雄叫びをあげながら、草をむしっては宙に舞い上げた。彼はその行為をまるで気がふれたようにいつまでも続けていた。

 

 家に帰っても、どうしても眠ることができなかった。風呂に入って自分を磨き立てながら何度も何度も鏡で確認する。

 顔つきが変わっていた。目が光っている。生き生きとして若々しく見えた。横っ腹の傷に目を落とした。すでにヒリヒリした痛みは引いていた。赤黒くて細長いあざが何本も横に走っていた。まるで得体のしれないものの巨大な手に鷲づかみされたような痕だった。

 ”きのうの晩オレはふんわりと宙に浮いたようだった。そこで気を失った。その後なにが起こったかはしらないがオレは直った。この傷からしてひょっとするとオレは、神のようなものに地獄から摘まみ出されたのかもしれない”

 ワナワナと激情に揺すぶられて身を震わせていると、物音がして廊下の端から野良着を着た松子がヒョッコリ顔をのぞかせた。下田英孝は素っ裸で脱衣所を飛び出した。凄い勢いで母親の足元にタックルした。松子は仰天して尻餅をついた。

 「カーチャン、カーチャン」

 英孝は松子の脚を抱きしめて離さず大声で泣き始めた。涙はとめどなく流れだし、全てを揺さぶるような慟哭は果てしなく続いた。いつしか、松子も息子の頭をしっかりと抱え込んでいた。彼女の乾いた土地のようなヒビ割れた頬にも、彼女自身の涙が流れてしみこんでいたのだった。

 

                          続く