塩砂字砂合三区。登記簿にはそう出ている。市の中心部からは遠く離れた住宅造成地である。10年ほど前は、強姦事件が頻発した葦の生えた沼地だった。近くには県境の川が流れている。
塩砂中央病院は軒の低い住宅が続く家並みに、忽然と突き出た10階建ての白亜のビルディングで、その形状は恐れ入って手を合わせたくなるような墓石に似ていた。その歴史は古く、葦原にふんどし姿の強姦魔が出没するよりもっと前、口の丸い背中にイボイボのついた山椒魚がウヨウヨいた頃に開設された。といってもその当時は、周りに柵を巡らせただけの養鶏場のような小さな施設だった。立地条件も整っていたし、心を病んだモノや気のふれたモノを世間から遠ざけ隔離するために大体使われた。
葦原がなくなり強姦魔も山椒魚もいなくなった。時代が流れたのである。
”塩砂に送るぞ”
悪さをする子供たちを戒めるため、大人たちが常套句に用いた塩砂精神病院もその時代に求められ、今の豪奢な総合病院に変貌を遂げたわけだった。
向井真彦は広い駐車場の端っこに車を停めて、京極進と歩き出した途端に少し変だと感じた。大袈裟にいえば他の惑星にでも降り立ったようなのだ。胸騒ぎがして、それはサングラスをかけた目で見回しても収まらなかった。
水を打ったように静かで、空気も冷蔵庫の中のように冷たい。もちろん、人っ子ひとりいない。夜の病院がこれほど不気味なモノとは思ってなかった。
京極進が小ぶりの立木の側で足を止めた。病棟への正面入り口が間近に見渡せる所だった。京極も向井と同じことを感じていたのだろう。振り返った顔は汗で光っていた。
「どうするよ?」京極がいった。
「なにをですか?」と向井。
「だから、あそこから入るかどうかってことだよ」そういわれて向井はギクッとした。
眺めているだけではなくて、中に入らねばならない。迫ってくる現実にあわてて考えを引き戻した。おそらくは、入口のドアは開くだろうと彼は思った。マットに体重をかけるだけで、大きな硬質ガラスはスルスルと左右に滑っていくはずである。だが、それでいいかはわからない。すぐに守衛が出てきそうな気もする。
「他の入口を探しましょうよ」向井はいった。「ここは昔、精神病院だったそうですよ」
「いまでもそうだよ」京極が答えた。「何かの広報で見たが、ここには有名どころの異常者が大勢収容されている」
「たとえば?」
「本当に知りたいのか?」
「・・・」向井はゴクリと生唾を吞んだ。
「一番有名なのは平岡篤紀だ。時分の娘を殺して食っちまった。丸ごと平らげるまで2ヶ月かかった。骨は磨いたようにピカピカだったそうだよ」
「骨までしゃぶるってやつですかね」
「もう少し捕まるのが遅かったら、骨もスープにしていただろうと調べた専門家はいっている」
「・・・」向井は黙っていた。
「ヤツは今、確実にこの中にいる。起きているか寝ているかはわからないけどね」京極がいった。
「そんなのを生かしておく理由があるんですかね?」向井は真剣に問うた。
「法律だよ、法律。今の法律では人間の形をしていれば人間ということになっている」
と京極が答えた時、反対側の通路から両手に紙袋を下げた女がトコトコ歩いてきて建物の中に入っていった。入口のドアはやはり自動になっていて、普通に開いて閉まった。その後、悲鳴や怒号も聞こえない。中に入るにあたっては、なんの支障もないことが確かめられたのである。
続く