「ま、いい。女を捨てるという仕事はそんなに簡単なことじゃない。しぶとい女はゴマンといる」
多枝の丸っこい顔が京極の目に浮かんだ。
「ぼくは知ってるんだ。だから、過激なことはやめておたがいにジックリやろう。まず、君はぼくが頼んだ当面の仕事をかたづけることにしてくれ。それだったらできるよな?」
「できます」救われた思いがしたのだろう。向井は元気よくいった。
「よし。じゃ、今日はもう遅い。解散しよう」京極は向井の車を降りた。
「おやすみなさい」向井は京極の背中に挨拶した。
証明のない駐車場には、何台かの車がポツリポツリと闇に潜む獣のようにうずくまって止まっていた。
翌朝、京極進は再び犬神三郎の官舎を訪れた。
犬神はすでに起きていて、庭で素振りをくれていた。木剣が風を切ってビュウビュウ唸りをあげている。ある程度の域に達しないとどうしても出せない音である。
犬神は京極が近づいてきたことに当然気づいていた。だが、稽古をやめようとしない。まるで、おれに逆らえばこの木剣をお見舞いするぞといってるようだった。京極だとて剣道の練達者である。素振りを見ただけで当人の力量は判断出来る。彼は寒気を感じながら、犬神が終えるのをジッと見守っていた。
やがて音が止んだ。犬神が木剣をダラリと下げたまま、京極に近づいて行った。
「おまえ、なにもこんな遠くで突っ立ってることはないだろうよ」
犬神は汗ひとつかいてない。というか、彼が汗をかいたのを見たことがなかった。Tシャツから突き出た両の腕は、名うての彫金師が鋳造した鋼細工のようだ。黒光りしている。京極は少し後ずさりし緊張して犬神を迎えた。彼は、犬神は人々を窮地におとしいれる禍々しい存在そのものを抹殺する役目を天から負っていると定義している。要するに悪魔処刑人である。ところが、犬神こそ悪魔だという人が大勢いる。だが、そんなはずはないのだ。現実に、彼は法の執行官をやっているのだから、、、。そこまで、神がめしいることはあってはならない。
「京極、そんなに逃げるなよ。なにも、とって食いやしねえから」悪魔処刑人が犬歯を見せて笑っている。
「いや、そのう、、、。冷たいものでも買ってこようかと思って、、、」京極はやっといった。
「ほう、ずいぶんと気が利くじゃネエか?おまえがそうしたいんならそうしてもらおうか。おれはアップルジュースがいいな」
京極は駆け足で、官舎のエントランスに設備されている自販機から好みのものを買って庭に戻った。犬神は植え込みの脇のテーブルセットに腰かけて待っていた。
「残念ながら、アップルジュースは品切れでした」
脅かされたことへのちょっとした報復だった。オレンジジュースの缶を2本並べて京極はいった。
「そうくると思ったよ。だから、アップルジュースといったんだ。本当はオレンジジュースが飲みたかったからな」
犬神は続ける。「京極よ。おれがそんなに恐いかい?」
そのとおりだった。今は土下座してでも命乞いをしたいくらいである。
「おまえは、そのご立派な頭でおれのことをなんだと考えてるんだい?」
”決まってるだろ。デビルハンターだ。アンタに勝てるのは、天にまします絶対主だけだよ。もし、いればの話だが、、、”
京極は怯えの中でこう思った。ごまかしがバレては、黙って犬神のいうことを聞くしかない。
続く