京極進はできあがったファイルを手に唖然としていた。タバコをあまりに深く吸い続けたので、指先がチリチリと焼け、灰がパラパラと下に落ちていた。達成感はあっという間にふっとんでいた。それどころか、自分が途方もない間違いをおかしているようで、寒気がしてきた。ここは自分を信じるほかないと再度思い直して立ち上がったが、不安は一挙に消えてくれない。駆け抜ける野ウサギのように、サッとよぎる。

 部屋の中をグルグルと歩き回りながら、ひとりぼっちで悲観的になるよりも、誰かに相談することを思いついた。

 とすれば、板橋教授が渡米中の今、相手は上坂多枝が最も適当だろうと判断した。彼女とは学生時代、同じ研究室で切磋琢磨した仲である。彼女の響くような感性と聡明さは身に浸みている。少々、気になることは彼女とは学問以外にも切磋琢磨した部分があるということだ。いわゆる男女の仲というやつで、何年もドロドロした愛憎劇を繰り返し、あげくは別れる別れないで、京極が彼女を2階から突き落としたことだってある。

 だが、それは10年以上も前のことだ。別れてから一度として会ってないが、彼女は今、東京でも指折りの精神科医に成長している。その著書も何冊か読んだ。

 ”青臭いときと違い、彼女は充分すぎるほど大人だ。いきなり訪ねて行っても、それなりの対応をしてくれるだろう”

 京極は多枝のでっぷりした肢体を思い出し、ホッペのブツブツしたニキビは消えただろうかなどと思ったりした。

 彼はどうにか気持ちを落ち着けて、コンピューター室をでたが、彼女と会う前に、捜査当局が作成した容疑者リストも一応は目を通しておきたいと考えた。猫田から貰った資料にはどういうわけか、それがない。

 彼は一階の受付に行き、猫田を探して貰った。すると、彼は自分の執務室にいるという。そちらまで足を運んでくれるようにとのことだった。

 京極は階数を確かめてからエレベーターに乗り、降りると、整然とした通路をゆっくりと歩いてその部屋を探した。

 猫田の執務室は通路の中程にあった。ちょうど向かいが御手洗になっている。京極はなんとなく尿意を覚えたので、そこで用を足し、水道で長い髪をなでつけてから、その部屋のドアをノックした。

 「はーい」と言う声が聞こえたので、京極がドアを開けると、猫田は重厚な机の向こうにチョッコリと座り、こちらを見ていた。

 

 「検事、そちらの容疑者リストが手元にないんですよ。それを見たいと思いましてね」京極進は出し抜けにいった。

 「ヤッパリね。そうくると思ってました」猫田史朗は座ったままそういった。「でも、わたしが入れ忘れたわけではありませんよ。現場が入れてよこさなかっただけです」

 「いれてよこさなかったってどうしてです?」京極はフに落ちなかったから聞いた。

 「現場があなたたちのことを、よく思ってないからでしょう。自分たちが身を粉にして作った資料をダシにして、ホシをあげようとしていると彼らは思っている。苦労もなしにおいしい思いをするつもりだとね」

 「しかし、ダシもなにも、この特命は本部長とあなたの他には誰も知らないわけでしょう?」

 「それがね。今は末端の捜査員まで、それを知ってるんですよ。とはいっても、またぞろ、わたしを疑わないで下さいネ」

 京極は愕然とした。でも、たじろがなかった。いずれにしろ、特捜班が動き出したことを担当現場が感づかないはずがないからだ。

 

                            続く