「ところが、この広い世の中には、外壁をつたってこの部屋はおろか、屋上までよじ登れる人間が何人かはいるんですよ。ロープなどは一切使わず、自分の手と足だけでね。どうです信じられますか?」

 犬神は黙った。猫田は続けた。

 「わたしは京極君を信じます。彼は犯人を特定できるといった。そうなったら、あなたの出番ですよ。きっと、しとめて下さいネ」

 「でも、子供は帰らない」犬神はいった。

 「仕方のないことです。もう、事件発生から5日がたった。京極君の説によると、指が5本もなくなってしまっている。彼女はもう死んでいるでしょう。知事もあらかたはあきらめてはいるんです。でも、それをみとめたくなくて、捜査員に毒づいてる。哀れですよ」猫田があるきだしたので、犬神は続いた。京極がふたりの座るべき椅子を占領して、資料を読みふけっていた。

 

 密談を終えて、表の駐車場に戻るとき、犬神三郎は花壇の側で足を止め、横を歩いていた京極進に話しかけた。

 「ナア、京極。おまえはおれたちが今でてきたあのビルの壁面を何も使わず、自分の手と足だけで、屋上までよじ登ることができるかい?」そういわれて、京極進は背後を振り返った。

 県警本部ビルは周囲を木立に囲まれ、西日を受けてピカピカ光り、まるで、一枚のミラーガラスのようにそびえ立っていた。

 「なんてこというんです、主任。ぼくはスパイダーマンじゃないんですよ。それに、ぼくは中のエレベーターを使う権利があるんだ。警官なんだから。それより、主任」

 そう呼びかけた京極の顔は赤く上気して、唇がめくれあがり、歯はおろか歯茎まですっかり露出していた。犬神はそんな表情の彼を見るのは、初めてのことだったので、ギョッとなった。

 「あの猫田って検事、なんといったと思います?しとめるですってサア。まるで、せせらぎを泳ぐ蛙でも竹の先で突っつくようなこといってましたよ。エド・ケンパーという有名なシリアルキラーがいますが、彼は2メートル10センチ、体重は120キロもあった。ミカエル・トウリはそれよりひとまわり大きい。トウリを追跡して重度の障害を負わされた、ホーバールという刑事は後にこう語ってる。”奴は地獄の閻魔様だ。確かに、わたしは何発か弾を撃ち込んだが倒れなかった。次に、わたしは鉄の棒でたちむかったが、それもアメのように曲がってしまった”とね。ぶったまでしょう。それをしとめるですってサア」

 彼はケタケタ笑い始めていた。

 「じゃなにか?おれにはそいつをしとめられないとでもいうのか」犬神はカッとなった。

 「そんなことはいってませんよ、先輩。いや主任ならきっとそいつをしとめられるでしょう。ぼくもそう思います。でも、検事がいったしとめるって言葉がおかしかった。だから、こうして今、笑っているわけです」

 京極はなんどもなんども長い髪をかきあげ、一方の手で顔を擦り続けたが、やはり、歯茎は飛び出したままだったし、気味の悪い笑い声も抑えることはできなかった。その姿は交尾する雌を見つけた、うれしくてたまらない雄猿のようにも見えた。

 

                           続く