戦争当時に画学生だったということは、ある程度恵まれた環境で過ごしておられたのかもしれませんが…
若き画家と画家の卵たちの絵が、静かに語りかけてきました…
絵だけ見ると…戦争の影を感じさせないような平和な日常がありました…
無言館に入り、最初に目にした『裸婦』の絵の作者 日高安典(ひだか やすのり)さんは、亡くなった父と同い年でした…
1918年(大正7年)…生きていたら106歳!
何か…他人事ではない世界に足を踏み込んだように思いました。
父は、「通信」の仕事で中国に行っていたそうです。でも、病気になって日本に帰ってきたと聞きました。
もし、父が銃をもつ兵隊だったら…私は生まれていなかったかもしれません…
以前、『裸婦』の絵のモデルの女性が無言館を訪ねて、安典さんと「再会」したお話を聞いたことがありました。
テレビでも報道されたそうですが、テレビがないので観ていません。
その方が、1999年の夏にはるばる鹿児島から来られて、50年前のご自分と心の中の安典さんと再会されたのでした。
無言館の感想文ノートに綴られていた言葉を、館長さんが朗読されています…
朗読の一部です
安典さん、日高安典さん。
私きました。とうとうここへ来ました。
私、もうこんなおばあちゃんになってしまったんですよ。
だって、もう50年も昔のことなんですもの。
安典さんに絵を描いてもらったのは・・・
安典さん、日高安典さん、会いたかった。
あれはまだ戦争が、そう激しくなっていなかった頃でした。
安典さんは東京美術学校の詰め襟の服を着て
私の代沢のアパートに、よく訪ねて来てくれましたね。
私は洋裁学校の事務をしていましたが
知人に紹介されて、美術学校のモデルのアルバイトに行っていたのでした。
いつの間にか、お互いの心が通じ合って
私の部屋で二人であなたの好きなベートーベンとメンデルスゾーンのレコードを聴いて・・・
楽しかったあの頃の事が、つい昨日の事のようです。
あの頃はまだ・・・遠い外国で日本の兵隊さんが
たくさん戦死しているなんていう意識などまるでなくて
毎日毎日私たちは楽しい青春の中におりましたね。
安典さん、私、おぼえているんです。
この絵を描いて下さった日のこと。
初めて裸のモデルをつとめた私が・・・
緊張にブルブルと震えて、とうとうしゃがみこんでしまうと
「僕が一人前の絵描きになるためには一人前のモデルがいないとダメなんだ」と
私の肩を絵の具だらけの手で抱いてくれましたね。
なんだか私・・・涙が出て・・・涙が出て。
けれど安典さんの真剣な目を見て、また気を取り直してポーズをとりました。
あの頃すでに安典さんはどこかで自分の運命を感じているようでした。
今しか僕には時間が与えられていない。
今しかあなたを描く時間は与えられていないと。
それはそれは真剣な目で絵筆を動かしていましたもの。
それが・・・それがこの20歳の私を描いた安典さんの絵でした。
そんな安典さんの元に召集令状が届いたのは、それから間もなくのこと。
あの日の安典さんは、いつもとは全く違う目をしていましたね。
そして私にこんな事を言っていました。
「もし自分が女に生まれていたら戦争に行く事などなく、この絵を描き続けていられたろう」
「しかし男に生まれたからこそ君に会う事ができて、この絵を描けたのだ」
「だから僕は幸せなのだ」と。
安典さんは昭和19年夏、出陣学徒として満州に出征していきました。
できることになら・・・できることなら・・・また生きて帰って君を描きたい、と言いながら。
…
安典さんは1942年に召集され、1945年4月19日にフィリピンのルソン島バギオにて戦死されました。(享年27歳)
遺骨は戻らず、名前が書かれた紙きれの入った白木の箱が届いただけだったそうです。
この女性は、それからずっと結婚されずにお一人で生きてこられたそうです…
たまたま読んでいた文庫本にはさまっていた栞…
(女子パウロ会の栞)
「沈黙のうちに
人は新たに 造り変えられる。」
(「心の歌」アントニー・デ・メロ著より)
無言館は一度は閉館の危機にあいましたが、内田也哉子さんが「共同館主」に就任されて、若い世代に画学生たちの「無言の言(ことば)」を語り続けていかれるそうです。よかった…
懐かしいNBS(長野放送)の報道