今日は水曜日ですので、今週の日曜日の礼拝メッセージをお届けします。
今週は、イエスさまの有名な「種まきのたとえ話」を味わいました。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちでもっとも大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13章13節)
私たちの教会の年間聖句です。
2023年9月3日のメッセージ
「いばら(茨)の中に播かれた種」
聖書 マルコによる福音書4章2~20節
(一部だけ載せます)
2 イエスは譬(たとえ)で多くの事を教えられたが、その教えの中で彼らにこう言われた、3 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。
4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。
8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。
9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。
このあと、イエスさまはこのたとえの意味を解き明かしてくださいました。
*マルコによる福音書4章13~20節
13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。
14 種まきは御言をまくのである。
15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。
16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。
20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。
全く、その通り。私たちにも心あたりのある、わかりやすいたとえ話です。
けれども、私たちが「良い地」になって神さまのみ言葉によって豊かな実を結ぶのは容易ではありません。
なぜなら、わかってはいるけれど、聖書の教えを実行することは難しいからです。
今日は「良い地に播かれたのではない種」、特に「いばらの中に落ちた種」のことを考えてみたいと思います。
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私たちが生きている「この世界」は、実に「いばら」で覆われている畑なのではないかと思います。
聖書に、このようなことが記されているからです。
*創世記3:17.18
17「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
最初の人間アダムが、神さまに禁じられていた「善悪を知る木」の実を取って食べてしまった後の話です。
この世で生きるのは、いばらが生い茂っている道を歩むようなものと覚悟し、ならばその道をどのように歩めばいいのかを考えてみたいと思います。
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*マルコ4:18.19
18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。
「世の心づかい」とは、「分離する」「分散する」という語源の言葉で、あれこれ思い悩む「思い煩い」のことです。
生きていくための手段、健康のこと、仕事のこと、家族のこと、いろいろな人間関係、国のこと、地球環境のこと、世界情勢、考え出したらキリがありません。
色々な問題に直面した時、私たちは何を判断基準にして考えているでしょうか。
普通に考えれば、自分の「得」になること、自分に「有利」になること、自分を満足させてくれる方を選ぶのではないかと思います。
しかし私たちは、確かな判断基準である神さまの言葉を聖書によって教えられています。
「聖書は…信仰と生活との誤りなき規範なり」と日本基督教団信仰告白によって教えられ、告白しているとおりです。
けれども、イエスさまは「敵を愛せと」おっしゃるけれど、そんなことが果たしてできるのだろうか。「報復してはならない」というけれど、やられたらやり返すのがあたり前でなないか、いろいろな疑問が出てきます。
それは、「思い煩いと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて御言をふさぐ」からだと、イエスさまは言われます。
「ふさぐ」という言葉は、「窒息させる」「絞め殺す」「溺れさせる」「溺死させる」という恐ろしい言葉です。神さまのお言葉を無にしてしまう「いばら」が、この世にはびこっているのです。
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しかし、神さまはそれを良しとはなさいませんし、そもそも神さまのお言葉が一つでも無駄になることはありえません。
*イザヤ書55:11~13
11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。…
12 あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行く。…
13 いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろ(いらくさ)に代って生える…
私たちは、いばらの茂るこの世で生きています。困難や迷いがあります。
けれども、自分の足元に神さまが播いてくださった種を大切に育てることができます。
御言葉の種が芽を出しても、欲と惑わしの誘惑にあいます。けれども、その一つひとつに向き合い、私たちに命を与える御言葉を選びとることによって、いばらに打ち勝っていきたいと思います。
イエスさまが処刑されるとき、私たちを苦しめる「いばら」でつくられた冠をかぶせられました。しかし、死から復活されたイエスさまは、この世のすべての「いばら」を枯らし、抜きとってくださったのです。
私たちを傷つけ、成長を阻もうとする「いばら」も、イエスさまの力には勝てません。
*マルコ4:8
8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。
それぞれの心に播かれたみ言葉の光によって力づけられ、困難に打ち勝ち、喜びと平安の実を結んでいきたいと思います。
【黙想・祈り】
父なる神さま。どうか、誘惑の多いこの世で生きている私たちの心をとらえてください。あなたがお送り下さるみ言葉を一つも無駄にすることなく、私たちの魂をやしなう命の糧としてください。そして、いつも、いかなる時も私たちを喜びと平安で満たしてください。
イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)
私たちの思い煩いを解決してくださるイエスさまが、力と平安を与えてくださいますように
今ごろひょこっと芽を出した
朝顔の花が咲き始めました。
時が来れば芽を出させ、
花を咲かせ、実を結ばせてくださる
神さまのお言葉に従いたいです