今日は水曜日ですので、今週の日曜日の礼拝メッセージをお届けします。
今週は、クリスチャンっていったいどういう人?みたいなことを考えてみました。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちでもっとも大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13章13節)
私たちの教会の年間聖句です。
2023年8月20日のメッセージ
「イエスさまが選ばれた弟子たち」
聖書 マルコによる福音書3章13~19節
(一部だけ載せます)
16 こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
18 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、19 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
今日は、イエスさまが12人の弟子を選ばれたお話です。
イエスさまは何のために、どのような基準で弟子を選ばれたのか、イエスさまの弟子であるとはどういうことなのか、私たちもイエスさまの弟子なのだろうか、そんなことを考えてみたいと思います。
*マルコ3:13
13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
ルカ福音書によれば、イエスさまは「夜を徹して祈って」12人を選び出して、「使徒」と名づけられました。
*ルカ6:12.13
12 このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
13 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
弟子と使徒との言葉の意味を原文で確認しますと、弟子は「学ぶ者」という意味、「使徒」は「遣わされる者」という意味の言葉です。
そして、イエスさまが弟子を招かれた理由が記されています。
*マルコ3:14.15
14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
イエスさまはご自分の教えを伝えるために弟子を招き、ご自分のそばに置いて訓練し、弟子に力を与えて「使徒」としてこの世に遣わされるのです。
***
それでは、イエスさまは12人をどのような基準で選ばれたのでしょうか。
聖書のエピソードを読む限り、夜通し祈って、み心にかなう者たちを選んだのにしては、弟子たちの資質も性格も「特別に立派な人たち」とは思えません。
聖書には、12人それぞれの弟子がどのような人であったのかあまり記していません。でも、シモンとヤコブとヨハネは別格です。
*マルコ3:16~17
…シモンにペテロという名をつけ、17 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
イエスさまはこの3人だけを選んで行動することもありました。しかも、この3人だけがイエスさまからニックネームをつけられています。
イエスさまのえこひいきでしょうか。そうではなく、この3人の姿を通して、弟子として「克服しなければならない課題」をお示しになったのではないでしょうか。
数少ない弟子のエピソードを読む限り、12人の弟子のなかで完璧だと思える人は一人もいません。
イエスさまが彼らにつけたニックネームは、イエスさまの弟子の姿を象徴的に現わしているように思います。
「ペテロ」という名前は「石ころ」という意味の名前です。盤石の石、岩という意味の「ペトラ」をもじった名前です。
しかしペテロは、石ころ(ペテロ)に過ぎない者であるのに「岩盤(ペトラ)」のようにふるまって、イエスさまをたしなめたことがあります。(マルコ8:31等)
またヤコブとヨハネは「ボアネルゲ(雷の子)」と名づけられるように、血気盛んな性格がうかがわれます。
自分たちを重要ポストに置いてほしいと、他の弟子に抜け駆けをしました。(マルコ10:35以下)
ヨハネに至っては、自分たちの仲間でない人々は焼き払いましょうか、とイエスさまに進言するような人でした。(ルカ9:54)
また、イスカリオテのユダはイエスさまを裏切りました。
これは、イエスさまに「見る目」がなかったからなのでしょうか。
***
このニックネームをつけられた3人の弟子とユダのことを考えると、自己中心で競争心に燃え、怒りを露わにしてしまうのが、実は私たちすべての人の心の思いなのではないかと思います。
ユダは、最後まで自分の思い描く「救い主(メシヤ)像」にこだわってイエスさまに失望し、イエスさまを捨てたのです。
「自我」と「自分の考え」から解き放たれることは、弟子が克服すべき課題です。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
もしかしたらイエスさまは、あえて不完全な者を選ばれたのかもしれません。
…それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
イエスさまが弟子を選ばれたのは、弟子が実を結び、神さまのすべての恵みによって富ませるためです。
神さまが私たちが結ばせていただく実…ガラテヤ書にある聖霊の実がそうでありましょう。
*ガラテヤ書5:22.23
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」
私たちも不完全な者であるにもかかわらずイエスさまが選んでくださり、神さまの教えに従って生きるように招いてくださったことを改めて覚えたいと思います。
「クリスチャン」とは、「キリストに似た者」という意味です。
イエスさまは、欠けだらけの弟子をそばにおいて育て、さらに聖霊を送って神さまのみ心を悟らせ、必要な力を与え、次第次第にみ旨に適う者にしてくださるのです。
12人の弟子がけっして完璧でなかったように、私たちもそれぞれに欠けや弱さがありますが、やがて豊かな実を結べるように、共にイエスさまについて行きたいと思います。
そして、神さまの恵みをひとり占めすることなく、他の方と分かちあうために、私たちも「使徒」として遣わされるということを心に留めたいと思います。
【黙想・祈り】
父なる神さま。私たちをイエスさまの弟子としてお招きくださったことを感謝します。あなたの愛と恵みを注がれて、あなたの使徒としてそれぞれの場に遣わされていることをあらためて心に刻ませてください。どうか私たちを祝福し、あなたのみ心のままに用いてください。
イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
【派遣と祝福』
平和のうちに、この世へと出て行きなさい。
主なる神に仕え、
隣人を愛し、
主なる神を愛し、
隣人に仕えなさい。
主イエスキリストの恵み
神の愛
聖霊の交わりが我らと共にあるように。
アーメン
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
礼拝は、「派遣と祝福」の言葉をもって終わります。
よく、クリスチャンは「きよく、正しく、美しい(心が?)」と誤解されるのですが、私に関していうとそれはまったくの誤解です。
自分がなさけないから、自分がダメだから、イエスさまに救っていただくしかないのです。
でも、イエスさまと共にいたら、少しずつイエスさまに似てくるかもしれません。それを期待します。
クリスチャンは、イエスさまのように人をゆるすことを学び、また自分もゆるされて平安を与えられます。
イエスさまのまねっ子して、少しでも神さまの子としてふさわしい者になりたと思います
いつも教会の屋上から眺める日の出です
イエスさま、今日もあなたの弟子として
生きることができますように。
みんなが神さまの恵みを
受け取ることができますように
今日は甲子園の決勝戦、
雷と雨の予報ですが…
両チームとも全力を尽くせますように
観戦チケットは
発売開始前から
アクセスできない状態でした
すごいね~