こんばんは、つなです🐟
今回はもうかなりいろいろ溜まりまくって、しんどくて
でもどこから話していたのか、どこまで話していないのかさっぱりわからないので、
もう一からぜーんぶ、つなのことをはなして行きたいと思います。
なので、かなり、、、かなーーーーーり長くなると思います。
(あまりにも長くなるようであれば、第2章みたいにします笑)
もはや一種のノンフィクション小説と思って頂ければと思います。
では、覚悟はよろしいですか?参ります・・・!笑
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まず、つなと父について。
昔は父は所謂オラオラ系といいますか、イキリ系といいますか。車を運転して、気に食わない人が居れば煽り、窓を開けて怒鳴る。幼少期の食事中は、幼少期故の飽きっぽさや胃の細さ、食わず嫌いのせいで怒鳴り怒られる。当時は土日の食事が億劫で仕方なかった。
でも、当時はそこだけで嫌いとは判断出来るような頭はありません。クレーンゲームで何かとってもらえれば大はしゃぎだし、夏にプールで遊んでもらえれば大喜び。
そのせいか、私の中の父はどちらかといえば怖い印象ではあったけど“父親”というものは上記のような堂々としたような、そんなイメージだったのです。
しかし、つなが中学1年の1月。ちょうどその日は学校行事のスキー合宿の日でした。そんな日の朝、母方の祖母が亡くなりました。そのときには父方の祖父母も、母方の祖父も既に他界していたのでつなの祖父母全てがいなくなった瞬間でした。事前にもうすぐかもしれない、と聞いていたし当時はスキーいけないのかな、なんて思ってしまっていました。もちろん悲しみもあったけど、おばあちゃんなら「おばあちゃんのせいでつなが楽しめないのは悲しむだろう」という思考でした。
大人になってから聞いたのですが、このときから父はおかしくなっていった、というか被っていた仮面が剥がれ落ち始めたのです。
母と父は所謂年の差婚で、11歳差があります。そのせいか父は、
「次(死ぬの)は俺だ」
と考えるようになってしまい、鬱になってしまいました。
死にたい死にたい、と希死念慮が止まらず入院もして、未だに投薬治療を続けています。
そして、鬱のせいか元々の性格か父はかなりの心配性で思春期になる中学の頃は、塾に通っていて帰宅時間が22時を過ぎることがあるにもかかわらず、友達と夜遊びに行くというと20時には帰ってこいといわれることが。
中学か高校か忘れましたが、ある日遊びに行く時何時に帰るのかとしつこく聞かれ面倒だったのでいつも19時には帰って来ていたし、19時には帰ると言い結局た10~20分程だったか、少し予定より遅くなってしまったことがあったのです。玄関を開けたらすごい形相の父の姿。そして19時は帰るって言っただろうとぶちギレられました。
何事もそんな感じで何時に帰るのか、どこへ行くのか、誰と行くのか何度も聞かれる日々。誰となんて言ったところでつなの友達なんて把握してないのに。いつからか説明するのもめんどくさくなり、中学でも高校でも体育祭や文化祭の打ち上げ、部活の集まりなんかはほぼ参加してませんでした。そのせいか、未だにたまに夜外に出ると何だかワクワクしてしまいます。
大学からは流石に学祭の実行委員会委員会なんかにも入ったりして、飲みに行く機会もあったりで夜も外へ出てました。
それでも終電でなるべく帰宅して、泊まりは学祭の期間くらい。たまーに委員会のメンバーと飲むのに終電で帰らないことはあったけどきっと同世代の子達と比べたら夜通しで遊ぶことは少なかった。
その時だからこそ味わえるものっていうのをずっと逃してきた。大学の頃もそれは何度もあった。
そして大学2年の冬。もう少しで3年になるってくらいにコロナ禍へ突入しました。
慣れないリモートでの授業に、普段では考えられないくらいの課題の量。プリントの説明のみの授業でこんなのに授業料払うんかと思うこともあった。それくらい授業の内容の濃さに差が大きくあった。さらにそんな中で父は仕事をしておらず、ずっと家にいて少しでも母の帰りが遅いと狼狽える。終いには授業中だと言っているのに情けない声で話しかけられる。対策をしようと貼り紙をしてもだめ。何度言っても話しかけてくる。
当時はディズニーが大好きで、年パスも持ってました。そんな大好きなディズニーもなかなか行けないのに、都内へのバイトはコロナへの感染を恐れながらも出勤しなければ買いたいものも買えない。
外へ好きに出かけられないストレス、大学の授業のストレス、父のストレス、全部が襲いかかって、頭がおかしくなりそうで本当に辛かった。
吐き出し2へ続く…→
つなでした🐟👋