本来ならモトGPマレーシアグランプリの事を書こうかと城太郎的には思っていたんですけどMortorsports.comさんに執筆されているルイス・ダンカンさんが今年の6月にマン島TTレースで3件の死亡事故が発生したと言う事を書いた記事を読んだので予定を変更しましてマン島TTレースについて書く事にしました。

↑左がホンダの社内ライダーの谷口尚己さんです。
(写真はネットの人からお借りしました)

モトGPのマレーシアグランプリの試合結果を速報で知る為に城太郎はMortorsports.comさんの記事を見たらルイス・ダンカンさんのTTニュースと言う記事があったので読んだら今年の6月にマン島でTTレースが開催されて3件の死亡事故が起きたと言う事が書いてあったのでマン島TTレースとホンダのRC141及びRC142とかライダーの谷口尚己さんなどについて書く事にしたんです。

マレーシアグランプリはバニャイアが勝ったんですけどクアッタラーロが根性で3位に入った為にバニャイアのチャンピオン獲得がまだ確定しないで最終戦のバレンシアに持ち越しに成ったのでモトGPの事を書かないでマン島TTレースについて書く事にしたんです。

マン島TTレースに初出場ながら日本人初の6位入賞を果たして同時に世界選手権ロードレースで日本人として初めてポイントを獲得した谷口尚己さんです。
マシンは125ccのRC142です。
(写真はネットの人からお借りしました)

1907年に始まったマン島TTレースは世界最古のオートバイレースとして知られてますけど当時は2輪の世界選手権ロードレース(世界グランプリ)のイギリスグランプリに使用されるコースだったんです。

英国本土とアイルランドを隔てるアイリッシュ海の丁度真ん中に位置するイギリス領のマン島と言う島の中の全長60数kmに及ぶ公道を使用するレースなんです。

当時は世界選手権ロードレースのグランプリ数が今ほど多くない時代で年間10戦から12戦くらいだったんですけどイギリスグランプリのマン島TTレースは各国で開催される世界グランプリのレースの中で1番伝統と格式がある別格のレースと言う位置付けを当時はされていたんです。

↑マン島TTレースの最多勝利記録保持者のジョイ・ダンロップ選手です。
(写真はネットの人からお借りしました)

マン島のコースは1970年代の後半までイギリスグランプリとして世界選手権ロードレースのサーキットとして使用されていましたからバリー・シーン選手などのトップクラスのワークスライダーたちが当時はこのコースを走ったんですけど公道レースの中でも特に危険なコースと言う事でその後のイギリスグランプリにはシルバーストーンとかドニントンパークなどのレース用に作られたクローズドサーキットが使われるように成ってマン島TTレースは世界選手権のグランプリから外された訳です。

その後のマン島TTレースはジョイ・ダンロップ選手やミック・グラント選手やトニー・ラッター選手などの若干の有名ライダーが出場する他は主に地元イギリス人のアマチュアレーサーたちが走るレースに成ったみたいなんです。

グランプリライダーたちより技術が低いアマチュアライダーですから更に危険度が増して現在までに240数人のライダーがマン島で命を落としているんです。

何故こんな危険な場所を走るのかと言う事は登山家がヒマラヤの山に登るのと同じような事ではないかと思います。

城太郎たちが大垂水峠を走って峠で死亡事故があって警察や救急車が来て夕方の大垂水峠がパトカーと救急車の赤灯で赤く染まって警察官に「お前らも今日は帰れよ」とか言われて走るのを止めてその日は帰るんですけど次の日にはまた峠に行ってたんです。
城太郎たちはバイクを引退して今は乗らないんですけどマン島を走る人たちの気持ちが何となく分かるんです。

(↑写真はネットの人からお借りしました)

先頭の35番ロン・ハスラム選手、ゼッケン8番片山敬済選手、片山選手の後ろがランディ・マモラ選手、その後ろの5番が81年世界チャンピオンのマルコ・ルッチネリ選手、ゼッケン1番が82年の世界チャンピオンのフランコ・ウンチーニ選手、ウンチーニ選手の後ろがエディ・ローソン選手です。
(写真はネットの人からお借りしました)

GPライダー(グランプリライダー)の片山敬済さんのドキュメント映画『甦るヒーロー片山敬済』の監督をされた泉優ニさんの書いた小説『マン島に死す』を読みますとマン島のコースの事やレース開催期間中のライダーたちの練習や生活の様子までが良く判るんですけどこの小説の舞台は1985年のマン島レースです。

(写真は三栄書房さまからお借りしました)
↑写真は1959年6月3日、マン島レース初挑戦に挑むホンダチームです。
左から鈴木淳三さん、鈴木義一さん、河島喜好監督、谷口尚己さん、田中貞助さん、ビル・ハントでハントの隣が整備主任の関口さんです。(1番右の人は名前が分かりません、すみません)

城太郎たちみたいなジジイ世代ですと大藪春彦先生の不朽の名作『汚れた英雄』の方なんですけど『汚れた英雄』を熟読玩味したライダーたちにとっては軽井沢の浅間とイギリスのマン島にロマンを感じると言うかサウダーデ的な郷愁を感じるんです。

(写真はネットの人からお借りしました)

城太郎はマン島に行った事は無いんですけど、まだ見ぬ土地に対する郷愁(サウダーデ)と言うような感傷的な気持ちに成るんです。

マン島TTレースはコース幅が狭くて路面状況が悪い上にエスケープゾーンが無い一般公道を使用するコースな為に2020年までに240人以上のライダーが事故で死亡している世界で1番危険なレースなんです。

マン島TTレースは例年5月から6月に掛けて開催されるんですけどコロナ禍以後初の開催となった2022年のレースで3件の死亡事故が発生したそうなんです。

大会序盤にマーク・パースローと言う人が練習走行中の事故で亡くなったあと6月5日(日)にサイドカーレースのパッセンジャーのオリビエ・ラボラルと言う人が命を落として更に翌日の6月6日(月)にスーパースポーツクラスのアイルランド人の52歳のベテランライダーのデイヴィ・モーガンと言う人が亡くなったそうです。

亡くなったモーガンさんはマン島レース出場80回と言うベテランライダーだったそうです。
(写真はネットの人からお借りしました)

在りし日のモーガンさんです。



1954年(昭和29年)に本田宗一郎御大がマン島TTレース挑戦宣言を出した時の社内向けの宣言書です。
宣言と言うよりは檄文です。
(画像は本田技研工業さまからお借りしました)

当時は日本にはアスファルトの舗装路がまだ少なくて県道どころか国道でさえ砂利道の場所が多いような時代でレース用のサーキットも未だなくて浅間火山レースのようにダートの場所でレースをしていた時代ですからレース専用のレーシングマシンと言う物も未だ無かった時代に当時は町工場に毛が生えたような規模の中小企業だった本田技研工業が世界選手権グランプリレースの中の最高峰のイギリスグランプリのマン島TTレースに出場して制覇すると言うような事を言い出したんです。

河島監督がお書きに成った物を読みますと大倉商事嘱託のパスポートを持ったホンダチームのメンバーがマン島に到着したのが1959年の5月5日だったそうです。

監督の河島さん以下ライダーの鈴木義一さん、谷口尚己さん、鈴木淳三さん、田中貞助さん、メカニックの関口久一さん、廣田俊二さん、マネージャーの飯田佳孝さん、通訳兼ライダーの米国人のビル・ハントの9人だったそうです。

「輸出もしてない会社の連中が外国でやるオートバイレースに出場しますって言っても出国ビザも外貨も出ないと思ったから機械類の輸入でお世話に成ってた大倉商事さんの名義を借りたんです...サンパウロに初レースに行った時の人たちほどじゃ無いけどお金は節約しました...安宿に泊まって床屋も自分たちでしました...でも腹が減っては戦は出来ませんから食事だけは三食ちゃんと食べました」
...と河島さんが言ってましたけど当時の日本と欧米の貨幣価値の違いとかGNPの違いと言う物があったから大変だったみたいです。

1954年にホンダのライダーの大村美樹雄さんとメグロのライダーの田代勝弘さんとエンジニアの馬場利次さんの3人がブラジルのサンパウロの市政400周年記念の国際レースに出場したのが戦前戦後を通じて日本のオートバイと日本人選手にとっての初めての海外遠征のレースだったそうです。

日本の通産省さまの方にブラジルのサンパウロ市から招待状が届いて「費用はこちらが持ちますから日本も参加しませんか」と言う話だったらしいんですけど書類が課長の未決箱に入ったままで締め切りを過ぎてしまったらしいんです。

「締め切りを過ぎてしまったから1人分の費用は出しますけど当初の予定のライダー10人、メカニック2人分の費用は出せません」と言う話に成ってしまったからホンダとメグロがお金を出し合ってライダー2人にメカニック1人をサンパウロに送り出したらしいんです。

海外旅行がまだ高い時代でブラジルまでの飛行機代が80万円もしたそうです。

大村さんは馬力やスピードなどの性能が外国のマシンより劣るホンダのドリーム号改造マシンで頑張って13位に入賞したんですけど250ccに出場予定の田代さんが練習走行中に転倒負傷した為に出場出来なくて当てにしていたスターティングマネーも入って来なくて安宿代とか食費が足りなく成った時に日本人会の人たちが義援金を募ってくれたり持って行ったバイクを現地で売り払って飛行機の切符を買って乗り継ぎ便でブラジルから日本まで5日も掛かって帰ったそうです…

本田宗一郎御大は「見たり聞いたり試したりした事の中で自分で試した事が1番大事なんだ」と言う実践哲学をホンダの若い技術者たちに教えたそうなんですけど常にチャレンジスピリッツで思い切った挑戦をした人だったそうです。

大村さんが「当時僕は21歳でメカニックの馬場さんも大学を出て2年目で23歳だったんですけどもこんな若造たちにブラジルまで平気で行かせちゃうんだから度胸のいい会社って言うか親父さん(本田宗一郎氏)の度胸の良さを感じました」
...と言ってますけどマン島TTレースに挑戦した時も30代、40代の技術者がたくさん社内に居たのに敢えて20代の若者たちにマシンの設計をやらせたらしいんです。

「30代、40代の先輩たちが居るのに親父さんは敢えて若者たちにやらせてくれたんです。エンジンを久米さんと新村(しんむら)さんに任せて車体はブラジルで食うや食わずの貧乏をした馬場さん、ライダーは社内チームのホンダスピードクラブの若者たちで僕も未だあの時は30に成ってなかったな 」
...と言う事を当時の河島喜好監督(後の本田技研工業社長)が言ってます

城太郎はのちに本田技研工業の社長に成った河島監督と面識が無いから直接お話をした事は無いんですけどホンダの黎明期にGPレーサーだった谷口尚己さんとか北野元さんとか田中健二朗さんにはお会いした事があるんです。

北野元さんはタイヤショップをしていたから北野さんのお店で城太郎はタイヤ交換をしたんです。

田中健二朗先生は筑波サーキットの前でパーツショップをしていたから城太郎はパーツを買ったりしてたんです。

仙台のスポーツランドSUGOでGPシーズンが終わったあとにヤマハワークスのGPレーサーを日本に招いて日本のレーサーたちと一緒に走らせるTBCビッグロードレースくらいしかテレビで2輪のレースの放送が無かった時代でテレビの解説は元ヤマハのワークスライダーの本橋さんがしてたんですけど当時は今みたいに世界グランプリの放送も無かったしYouTube も無い時代だったんです。

今は福田照男さんとか上田昇さんとか坂田和人さんなんかがそう言う解説の仕事をしてますけど昔はレーサーを引退したあとはバイクショップだとかパーツショップなんかのお店をしてヤマハの金谷秀夫さんとかホンダの田中健二朗さんみたいにクラブチームを運営する人が多かったんです。

金谷秀夫さんはヤマハ系のレーシングチームのチームカナヤを主催して田中健二朗さんはホンダ系のチームのテクニカルスポーツ関東の総帥としてたくさんの後輩レーサーを指導しました。

テクニカルスポーツ関東からは畝本久さんとか井形とも子さんなどが世界グランプリに行きました。

谷口尚己さんです。
(写真はネットの人からお借りしました)

ホンダのGPライダーだった谷口尚己さんはレーサーを引退したあとに全然別な道に行った人で神奈川県横浜市青葉区でパーラー青葉って言う喫茶店みたいなレストランみたいなお店をしてたんです。

ゼッケン8番が谷口尚己選手です。
(写真はネットの人からお借りしました)

ホンダスピードクラブの同僚で一緒にマン島に行くはずだった秋山邦彦さんが宗一郎御大の伝記映画『妻の勲章』の撮影中に箱根で事故死したんです。
谷口さんは秋山さんの遺髪と写真を革ツナギの下のお守り袋に入れて初めて走るマン島のコースを飛ばして6位に入賞したんです。

外国製のMVアグスタなんかのワークスGPマシンと比べたらホンダのマシンはトップスピードで10km/hから15km/hくらい遅いマシンだったんですけどホンダ勢は頑張って谷口さんが6位、鈴木義一さんが7位、田中貞助さんが8位、鈴木淳三さんが11位でホンダはチーム賞を獲得しました。

この時のイギリスGP、マン島TTレース125ccクラスの優勝者はMVアグスタのタルキニオ・プロビーニで2位には東独のMZの2ストロークマシンを駆るルイジ・タベリ、3位がドゥカッティのマイク・ヘイルウッドでした。

谷口尚己さんのサインが欲しくて城太郎は横浜市の区分地図帳を買って来て行き方を調べてバイクで谷口さんのお店に行ったんです。

ヤマハのRZに城太郎は乗ってたからホンダのGPレーサーの谷口さんに悪いみたいな気がしたんですけどヤマハのバイクに乗って行ったんです。

谷口さんは(昔は昔、今は今)と言うような考えでレストランのオーナーとして第2の人生をしてらっしゃったみたいで店内には写真とかトロフィーなど何も無くて若いお客さんたちは谷口さんが世界選手権のイギリスグランプリを走って6位に入賞したグランプリレーサーだった事をみんな知らないみたいなんです。

城太郎が谷口さんにサインを貰ってたら常連客のリーマンの親父が「えっ、何?マスター何でサインしてんの?マスター有名人なの?」とか抜かしやがったんです。

「いやあ、俺若い時にさあ、バイクのレースをしてたからさあ」って谷口さんが言ったらこの糞リーマンのバカ親父...
「えっ、マスター昔オートレースの選手だったの?」とか言ってやがるんです。

東京スポーツとかの新聞を読んで三競オートの博奕と風俗店での売春セックスしかやる事が無いような三流会社の安サラリーマンの親父は世界グランプリロードレースなどと言う物を知らないでバイクのレースと言ったら川口オートとかのオートレースの事だと思ってやがるんです。
(こいつブチ殺して産廃処理場に埋めてやろうか)と思いました。
思っただけです😣...

(写真はネットの人からお借りしました)

当時は鈴鹿サーキットも無い頃だから荒川沿いの土手の上の直線道路をホンダはテストコースに使ってたらしいんです。

「宗一郎御大はさあ、ここを荒川の土手だと思うな、ここがマン島のサーキットだと思え、って言って俺たちを引っ張って行ったんだよな、でも親父さんも河島監督もレースの時には無理しなくていいからな、転ばないで帰って来いって言ってくれたんだよ、あれで緊張が解れて固く成らないで走れたんだよ」って谷口さんは言ってました。

「踏み出した所が道に成る」って言うような事をアントニオ猪木さんが言ってたんですけども本田宗一郎さんは「荒川の土手だと思うから土手なんだ、荒川の土手じゃなくてマン島のコースだと思え」と言ったそうなんです。

本田宗一郎さんみたいな人はもう出て来ないと城太郎は思います。
時代が違って今の教育を受けた若者からは本田宗一郎さんみたいな人はもう出ない気がします。

谷口尚己さんは若い時も二枚目のいい男でカッコ良かったんですけど城太郎が谷口さんのお店に行った当時は50代くらいだったと思うんですけどダンディでカッコ良かったです。

谷口さんは東京の江戸っ子の人だから意気に感じて走るみたいなレーサーだったみたいな気がするんですけど人間の内面的にもカッコがいい人でした。

マン島の郵便切手に谷口尚己さんがRC142のマシンで疾走する絵が使われて谷口さんは日本人で只1人マン島の切手のモデルに成った人です。

城太郎たちジジイのオールドファンにとっては谷口尚己さんとか田中健二朗さんとか北野元さんなどの50年代から60年代前半のホンダのGPレーサーとかマン島TTレースとかアイルランドのアルスターグランプリなんかにロマンを感じて胸が熱く成るんです...

でも今のホンダは日本グランプリに岸田を招待したりして権力に媚びて阿(おもね)るような事をしたから少しガッカリしてしまいました。

宗一郎御大は権威に媚びずに反骨精神で権力者に反発して生きた人です。