高知城ー最終回・天守遠望と山内一豊 | 京都案内人のブログ

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二の丸跡からの天守

 

 

 

 

高知城は関ヶ原戦後に山内一豊が

 

初代土佐藩主として築城を開始。

 

 

 

 

 

 

 

その4年後に一豊が病死、2代目

 

忠義に城の普請は引継がれたが、

 

すべての城郭が完成したのは、

 

10年後の1611年(慶長16)のこと。

 

 

 

 

詰門と本丸石垣(右)

 

詰門

 

 

 

その後の1727年(享保12)に城下

 

町の大火で追手門を残し天守はじ

 

めほとんどの建物が焼失した。

 

 

 

三ノ丸跡

 

 

 

 

 

現在の天守は1749年(寛延2)

 

建てられたもの。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、明治政府の廃城令により

 

天守や本丸周辺建造物と追手門を

 

残し城郭建造物が取り払われた。

 

 

 

 

 

 

 

高知城を一巡りして、今更ながら

 

明治政府の西洋被れ、日本文化の

 

破壊者になったことが残念でなら

 

ない。

 

 

 

板垣退助の銅像

 

板垣退助像と追手門

 

 

 

高知城をほぼくまなく歩いて、

 

最後に板垣退助像や追手門東北

 

矢狭間塀と山内一豊の銅像を見て

 

城を後にした。

 

 

 

 

 

 

追手門東北矢狭間塀と天守

 

 

山内一豊の銅像

 

1545年(天文14)、尾張国守護代織田家

の家老だった山内盛豊の3男。父の盛豊

が織田信長に討たれ、一豊は流寓の身と

なるが、後に信長、秀吉に仕えた。

信長の浅井・朝倉攻めや秀吉の毛利攻め

賤ヶ岳合戦などで武功を挙げて、長浜や

掛川城主となる。秀吉没後は家康に与し

て関ヶ原戦に参戦。東軍勝利によって

家康から土佐22万石を与えられた。

 

 

千代と馬像

夫の一豊が織田家に仕え、信長の馬揃え

の触れが出された時、一豊は名馬を探す

も高額で手が出ない。妻の千代は嫁入り

の時に母から夫の一大事に使うようにと

授かった10両を大切にしまっていた。

この馬揃えこそがその時と、一豊に10両

を渡した。欲しかった名馬を手に入れた

一豊は、名馬にまたがって堂々と参加。

これが信長の目に止まり、貧しいながら

武士としての心掛けを褒めて200石の

知行を賜ったという。

 

 

 

 

長くお付き合い頂いた方には

感謝申し上げます。

 

高知城はこれにて(了)