松山道中記ー最終回・秋山兄弟生家跡 | 京都案内人のブログ

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秋山兄弟生家跡

 

 

 

 

松山城のすべての城郭を見て、

 

 

再びロープウェイで下山した。

 

 

 

 

 

 

 

駅からロープウェイ通を歩いて、

 

少し横道にある秋山兄弟の生家跡

 

を訪ねた。

 

 

 

 

 

ロープウェイ通

 

 

 

 

この生家は松山空襲で焼失したが

 

2005年(平成17)に復元された。

 

 

 

 

 

 

 

司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読

 

んで初めて秋山兄弟のことを知り

 

いつかは訪ねたいと思っていた。

 

 

 

 

復元された生家

 

 

 

 

小説を読むまで、まったく知らな

 

かった秋山兄弟に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

 

残された資料などから忠実に再建

 

されたらしいが、想像していたよ

 

りも小さな家だった。

 

日露戦争時、兄の秋山好古は騎兵第一旅

団長として出征し、日本の勝利に貢献。

弟の秋山真之は海軍兵学校へ進学し、

日本海海戦では作戦参謀としてロシアの

バルチック艦隊の撃滅に貢献した。

 

 

 

秋山好古像

1859年(安政6)〜1930年(昭和5)。

松山藩の下級武士・秋山久敬の3男とし

て誕生。陸軍大学へ進み、フランスに

留学、帰国後に騎兵第1大隊中隊長や

大隊長に昇進。日露戦争開戦時、騎兵

第1旅団長として出征し、世界最強と

いわれたロシアのコサック騎兵を相手に

戦い、日本の勝利に活躍して「日本騎兵

の父」とも呼ばれた。後に松山の北予中

学校の校長となり教育者として尽力した

1930年(昭和5)、糖尿病と壊疽が原因

で満71歳で没した。

 

 

秋山真之像

1868年(慶応4)〜1918年(大正7)。

秋山久敬の5男として誕生。海軍兵学校

を卒業して、アメリカに留学した後、

海軍中佐となる。1904年(明治37)の

日露戦争の日本海海戦では、旗艦三笠の

連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦

担当参謀となり、ロシアのバルチック艦

隊の撃滅に導いた。戦後、海軍大学校の

教官、東欧視察などを経て中将に進級。

1917年(大正6年)5月に虫垂炎を患っ

て箱根にて療養したが、翌年に死去。

 

 

 

 

 

 

坂の上の雲ミュージアムや子規堂

 

にも寄りたかったが、高知へ行く

 

高速バスの時間の関係で、すぐに

 

松山駅に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長くご覧頂きありがとうございます。

これにて松山道中記(了)