展示作品(撮影可能のみ・京都国立近代美術館常設展より)
京都国立近代美術館のコレクションから、
ユージン・スミスの写真展が開かれている。
今回は、第二次世界大戦の従軍写真が中心に
展示されている。
「第二次世界大戦:アメリカ兵に発見された瀕死の赤ん坊、サイパン」
1944年・ゼラチン・シルバー・プリント
ユージン・スミスは25歳で従軍記者となって
サイパン、沖縄、硫黄島などに派遣されて
『ライフ』などに写真を提供したが、
従軍取材中に致命的なほどの重傷を負った。
「第二次世界大戦:マーシャル方面作戦・水葬」
1944年・ゼラチン・シルバー・プリント・
約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に
悩まされることになる。
展示作品(撮影可能のみ・京都国立近代美術館常設展より)
戦後はフォト・ジャーナリストとして復活し、
1955年にマグナム・フォト※1に加わって活躍した。
※1:1947年にロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、そしてデヴィッド・シーモアの四人の写真家たちによって結成された世界を代表する国際的な写真家のグループ。
「楽園への歩み、ニューヨーク郊外」 1946年
© 1946, 2021 The Heirs of W. Eugene Smith(京都国立近代美術館蔵)
「カントリー・ドクター」 1948年
© 1948, 2021 The Heirs of W. Eugene Smith(京都国立近代美術館蔵)
・人口約2000人の町、アメリカコロラド州クレムリングでたった一人の医者、アーネスト・セリアーニの多忙な生活と仕事をテーマとした作品。「LIFE」1948年9月20日号に発表され、彼の名を世界に知らしめた。
「スペインの村」 1950/1951年
© 1950/51, 2021 The Heirs of W. Eugene Smith(京都国立近代美術館蔵)
私の世代では写真家ユージン・スミスの名は、
日本で水俣病を密着取材したフォトジャーナリスト
として知られている。
「水俣湾での漁師」1972年頃
1970年、ニューヨークのユージンの仕事場に
ひとりの日本人男性が訪ねてきた。
工場排水によって水俣で多くの被害者が出ていることを
彼から聞いたユージンは、翌71年から水俣に移り住んだ。
「チッソ工場から排出される廃液」1972年 ©Aileen M.Smith
熊本県水俣市月ノ浦に家を借りて、3年間チッソが
引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、
胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行った。
「実子さんの写真を撮るユージン・スミスさん」1971年
撮影:塩田武史氏(2019年10月の朝日新聞サイトより)
その中で、水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち
約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、
暴行を受ける事件が発生した。
ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく
打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った。
「実子ちゃん」1972年頃 ©Aileen M.Smith
1956年5月1日、初めての水俣病患者・田中実子さん。
ユージンが取材した時、彼女は18歳だった。2歳11カ月で水俣病を発症して言葉を失った。65年間、食事も排泄処理も入浴も、自分ではできない。水俣病の原因物質メチル水銀は脳に深刻なダメージを残した。
(2021年10月の朝日新聞サイトより)
これでも彼はチッソを訴えることもなく、
日本人を恨むこともなかった。
1978年10月15日に発作を起こして59歳で没した。
日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、
ユージンの死後の1980年だった。
「漁村とユージン」撮影:⽯川武志氏
W・ユージン・スミス:1918年12月30日ー1978年10月15日
カンザス州ウィチタで生まれ。ユージンの母方の祖母は、アメリカインディアンのポタワトミ族の血筋を引いていた。彼が18歳の時、大恐慌で破産した父親が散弾銃で自殺。それでも母の後押しで、写真家として奨学金を得て、19歳の時に『ニューズウィーク』の仕事を始めた。そして従軍記者として沖縄戦の取材中、日本軍の迫撃弾の爆風によって重傷を負う。
戦後は「フォト・エッセイ」という独自のフォト・ジャーナリストとして復活した。1974年10月、写真集『水俣』の掲載写真の選定や文章もほぼ終えて水俣市を去ってニューヨークへ帰国した。晩年はアリゾナ州ツーソンで暮らし、アリゾナ大学で教鞭をとっていた。1978年10月15日、自宅近くの食料雑貨店へ猫のエサを買いに行った際、発作を起こして59歳で没した。