兼好法師のこと | 京都案内人のブログ

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徒然草金沢本

「徒然草絵巻」(金沢文庫)






今では誰もが知る「徒然草」は、

その成立した南北朝の動乱時代にあって、

さほど評価は高くなかった。身分も高いとは言えない

兼好が世捨人となって書いた本で、

歌人や有識故事に通じた人が記した

書物の域を出るものではなかった。






兼好肖像画

兼好法師肖像画(狩野探幽筆







この兼好法師の「徒然草」が評価されるのは、

それから100余年後の僧正徹や心敬(※1)が、

徒然草の第137段(下巻の冒頭※2)

文章を引用して、その心的態度に共感し、

芸術精神を激賞してからだとされる。


※1 正徹(しょうてつ)
1381年(永徳元)〜1459年(長禄3)。
石清水八幡宮の神官の一族とされる。
臨済宗の僧侶で、歌をはじめ古典研究にも通じた。
「徒然草は枕草子を継ぎて書きたるもの也」と、
随筆というジャンルの文学形態を示している。

心敬(しんけい)
1406年(応永3)〜1475年(文明7)。
和歌山の出身で、比叡山で修行の後に
近江園城寺の塔頭住持となった。正徹に歌を
師事して連歌師としても名を馳せた。


※2 第137段
「花はさかりに、月はくまなきをのみ
見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、
たれこめて春の行方知らぬも、
なほあはれに情ふかし…」
この文章表現を絶賛した。







この後、枕草子、方丈記ともに優れた

随筆文学としての評価を受けて、

広く出版されて読まれた。







徒然草烏丸本

徒然草」:
権中納言烏丸光広による校定本・1613年8月15日








ところが、江戸時代に入るとあの本居宣長は、

自著「玉勝間」の中で同じ段を取り上げて、

兼好法師のいう風流や雅ごころは、

ごく世間に媚びたつくりもので、

後世の物知りぶった者が表面を

捉えているに過ぎない。と酷評している。



この宣長さん、余程見識ぶった学者などが

嫌いだったようだ。心敬法師が師匠の

正徹に倣っていることの指摘もある。



それはともかく、「徒然草」が現在のように

序を含めて244段に分けられたのは、

1667年(寛文7)に北村季吟(※3)

刊行した「徒然草文段(もんだん)抄」による。



この書によって「徒然草」は広汎に普及して、

章段の分立をはじめ、後年の研究にも

大きな影響を与えている。


※3 北村季吟(きたむらきぎん)
1625年(寛永元)〜1705年(宝永2)。
現在の滋賀県野洲市の出身。松永貞徳の
下で俳諧を学び、飛鳥井雅章らに和歌や
歌学を身につけたことから、
土佐日記や伊勢物語、源氏物語の
注釈書を著している。64歳にして
幕府の歌学方に任じられた。
俳諧の門人には松尾芭蕉や山口素堂らがいる。








徒然草」の成立は、その中に記された

後醍醐帝時代や公卿名と官職、事項

などから1330年(元徳2)11月以降、

1331年(元弘元)9月20日以前とされる。

そうだとすれば、執筆したのは50歳近くであり、

後醍醐天皇の討幕失敗で南山城の笠置山に

遷座して南北朝の幕開けとなった時だ。




まさしく波乱に満ちた時代に、

「つれづれなるままに、日くらし、

硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、

そこはかとなく書きつくれば、

あやしうこそものぐるほしけれ」

だったのだ。

「徒然草」序段より















吉田兼好略歴

興味のある方























長泉寺

長泉寺(ちょうせんじ)
京都市右京区御室岡ノ裾町。
当初は双ヶ丘の西麓にあった草庵の近くだったが、
1704年(元禄17)頃に長泉寺造営の時に移されたという。







兼好の家は代々占を司る、朝廷の神祇官や
太政官として仕えた名家の卜部氏だった。
この卜部氏は後に吉田家と平野家などに分家し、
兼好の祖父兼名の時に庶流となった。

父の兼顕は吉田家系を継ぎ、治部少輔の位階で
吉田神社の神職を務めている。

長兄の慈遍は大僧正の位に上ったが、
次兄兼雄は従五位下の民部大輔程度の
身分に過ぎない。兼好は三男だったために
神職には就かず、堀河具守(堀河家)の
家司(けいし)として出仕。

具守の娘基子が後宇多天皇の妃として
生んだ皇子が、後二条天皇となった縁で
朝廷にも仕えて蔵人・左兵衛佐を叙任した。

ところが、兼好は1322年(元享2)前後に(※3)
突然出家して隠棲した。その後は小野郷
(山科・大原の2説がある)や修学院、
比叡山の横川での参籠生活を送っている。


※3兼好出家の原因として、仕えていた
後宇多上皇に次いで邦良親王が崩御した
1326年(正中3)以後が定説だったが、
後に兼好が発した寄進状や確かな史料の
発見などから、後宇多上皇と邦良親王の死
以前に出家していたことが確認されている。





こうした経緯は鴨長明と比較されるが、
長明が自身の出世の道を閉ざされて
隠遁した状況と、兼好はまったく違う。
兼好は、おそらく貴族社会の宮使いの
虚しさや矛盾を感じて世間から
隠れたものと思われる。

兼好が出家した10年後には、鎌倉幕府が滅亡、
新たな足利幕府の成立など時代は大きく
変動していた。そして時の後醍醐帝が
天皇親政を進めるも、足利尊氏の反発で
南北朝時代となる。

こうした激動期に、出家後およそ20余年の
修道暮らしを終えた兼好は、齢60になって
京都双ヶ丘の西麓に一庵を結んだ。

出家中に二条為世(※4)の門で歌や古今伝授
を受け、「和歌の四天王」と称されるまでに
なっており、歌人や有職故実家として
暮らしを支えていたと思われる。

事実、1344年(康永3)10月、足利直義が
勧進した「高野山金剛三昧院奉納和歌」に、
兼好は和歌5首を詠進している。

尊氏の実弟直義をはじめ高師直など、
時の権力者との交渉もあり、生活には
困らなかったことが分かる。


※4二条為世(にじょうためよ)
1250年(建長2)〜1338年(建武5)。
歌道二条派の祖二条為氏の長男。正二位大納言。
「新後撰和歌集」・「続千載和歌集」などを撰集。






長泉寺墓所

長泉寺墓所に眠る兼好法師
・墓の横には歌碑が建てられている
「契りおく花とならびの岡の上に哀れ幾世の春をすぐさむ」