大徳寺
京都市北区紫野大徳寺町53
鎌倉時代の終わりの頃、宗峰上人(大澄国師)がこの地に小庵を結んで大徳と名付けたのに始まる。しだいに上人の学徳が知られるようになり、花園天皇、後醍醐天皇の帰依を受けて勅願所となる。その後の1326年(嘉暦元)、法堂が完成して龍宝山大徳寺と命名された。
その後、応仁の乱で伽藍のほとんどが灰塵と化したが、一休禅師によって復興された。
平康頼の石塔(地蔵宝塔仏)
平康頼は、平家打倒を密謀したと云われる鹿ヶ谷事件の首謀者の一人として、俊寛らと鬼界ヶ島に流罪となった。
千体地蔵塚
実際は700体ほどで、石仏の多は室町から江戸時代にかけて造られたものだという。