千本ゑんま堂と般舟院陵墓の石仏 | 京都案内人のブログ

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千本ゑんま堂の石仏
京都市上京区千本通蘆山寺上ル 閻魔前町34

石仏イメージ

 正式には光明山歓喜院引接寺(いんじょうじ)と称し、高野山真言宗に属する寺院。開基は小野篁との伝承があり、盂蘭盆会と精霊迎えを融合した法儀の根本道場として建立された。現在の寺院となったのは、1017年(寛仁元)に恵心僧都源信の門弟・定覚上人によるもの。この引接とは引導と同意語で、仏が人間をあの世に導いてくれるという意味がある。


本堂

※平安時代、この辺は「蓮台野」と呼ばれ「化野」「鳥辺野」とならぶ葬送地だった。この周辺に遺骸を葬った際、建立された石仏や卒塔婆が何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれる。現在でも多くの石仏群が出土し、ゑんま堂の裏手にも残されている。


石地蔵

石仏アップ

石仏全体

全体-2








般舟院陵墓の石仏
上京区般舟院町(千本今出川東入る)


般舟陵


 後土御門天皇後宮 皇太后朝子 般舟院(はんじゅういん)陵墓。後花園天皇、後土御門天皇、後奈良天皇と皇子や皇女10名の陵でもある。般舟院は天台宗の寺院で、元は伏見桃山(指月山)にあったが、1595年(文禄4)、秀吉の伏見城築城のために寺院と陵墓ともに当地に移転された。陵の西側にある塚に数体の石仏が残されている。


般舟陵の石仏

般舟陵の石仏アップ




式子内親王の墓?

般舟陵の塚

 式子内親王(※)の墓と伝わる塚で、守るようにして数体の石仏が佇んでいる。鎌倉時代の造立といわれるが、確かなことは何も分からない。
※式子内親王(しきしないしんのう):平安時代末期、後白河天皇を父に生まれ、10歳で内親王となって賀茂神社の斎王代となった。新三十六歌仙の一人。藤原定家との恋愛の逸話も残されている。

石塔